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442争奪戦
ノルマンディー上陸作戦と同時期に遂行されるはずだった第7軍の南フランス上陸作戦が、2ヶ月遅れの1944年8月15日に行われた。この作戦は当初クラーク中将が総指揮をとる予定であった。しかし、作戦に反対だったクラークはアイゼンハワー総司令官に直訴して第5軍に残る。代償としてクラークは自軍から3個師団を第7軍に回す約束をする。
クラークのもとに第7軍司令官デバースから要請が届く。442連隊を第7軍に転属してほしいというのだ。驚いたクラークはデバースに断るが、第7軍も引かなかった。「クラークの方から3個師団割譲を約束した。第7軍はただ442連隊を名指しただけ」というのがデバースの主張だった。悩んだ末、クラークは本国の統合参謀本部に裁定を求める。参謀たちは、クラーク、デバース双方の言い分を聴いて、「まるでアメリカ軍には442連隊しかいないようだ」と話したという。結局、442連隊は第7軍に配属されることに決定した。
フランス ヴォージュ山脈へ その1 ブリュイエール解放
442連隊は戦死239名、負傷1,000名以上に達し、当初の3分の1になっていた。連隊はナポリで補充兵700名を迎え入れる。
1944年9月30日、移動命令を受けた442連隊はフランスの港町マルセイユに到着する。そこで第7軍第36師団に編入された。兵士たちは何かと因縁深いテキサス師団のTマークを左腕に付けることとなる。
第36師団(通称テキサス師団)は442連隊に先立ち、8月中旬に第5軍から第7軍に転属、フランス、ヴォージュ山脈に向けて進攻していた。彼らは既に8,000名の死傷者をだしていた。
442連隊はマルセイユ郊外からトラックに分乗し移動。第3大隊だけが鉄道移送となる。移動中、兵士の1人が日本海軍にいる兄のことを告白する。民主主義で育った2世たちの反応は「君がうしろめたい気持ちになることはない」だった。
フランス北東部にあるヴォージュ山脈は、ところどころ平坦な土地に小さな村落がある。その村落の1つがブリュイエールである。この一帯は、ドイツ国境に近いため幾度も戦争に巻き込まれており、その度にドイツに奪われたり、フランスに取り返されたりを繰り返してきた。
真珠湾攻撃の1年半前、1940年6月21日、ドイツ軍はブリュイエールに進行する。町を牛耳ったのはSS(ナチ親衛隊)だった。30名ほどいたユダヤ系はポーランドの強制収容所に送られた。町の人々の中にはレジスタンスに加わる者も少なくなく、ゲシュタポもアメリカのFBIが日本人にそうした様に疑わしき者を次々と逮捕していった。
10月14日、442連隊が戦列に加わる。第36師団ダルキスト少将の司令部からは敵の防衛戦力は僅かとの情報が伝えられていた。
10月15日、442連隊はブリュイエールの街を開放するため、高地に陣取るドイツ軍を攻撃。ヴォージュの深い森を進む。第100大隊の攻撃目標は4つある高地のうちA高地と呼ばれるものだった。同じく、第2大隊はB高地を目標とした。キム大尉は自ら高地を偵察、敵だらけで白人兵が1週間も動けなくなっていると報告した。しかし師団長のダルキストは取り合おうとしなかった。
その日、連合軍によるブリュイエールへの砲撃はますます激しくなった。昼に病院に落ちた砲弾は釣鐘に跳ね返り、町中に鐘の音が鳴り響いた。
10月16日、敵の反撃に拒まれながら第100大隊と第2大隊は麓に向かって前進する。冷たい森の中、ドイツ軍はカモフラージュした銃座から掃射をしかけた。埋められた地雷は、従来のものに加え探知機に反応しない非金属の物があり工兵たちを悩ませた。深い森に対戦車砲中隊が思うように応戦できず、歩兵はバズーカを持って戦った。ドイツ軍の88ミリ砲は、樹木に当たると砲弾が破裂し、無数の鋼片とともに鋭く裂かれた木片が降り注いだ。このTree Burstは多くの2世兵を死傷させ、塹壕を無意味にしたほどの威力だった。
10月17日早朝、農家を営むアンリー ロベール宅に地元出身のレジスタンス、ジャン ドロランが現れる。彼はアメリカ軍が来たことを手短に説明し、ロベールの家を臨時の作戦本部とした。ロベールと身重の妻は、やってきたアメリカ兵に度肝を抜かれる。ドロランが言わなければ、それがアメリカ兵とは思えなかったのだ。小さなアメリカ兵は親切だった。妻の背後から様子をうかがう10歳のジェニイにチョコレートやKレーションを握らせた。このときの戦闘で、ロベールの所有していた森の木すべてが以後、銃弾で木材の価値を無くす。
キムはなんとか戦車で部隊を支援できないかと考えていた。森の中は戦車が通れるような道もなく、急勾配で戦車が登るのは不可能だった。にもかかわらずドイツ軍は高地の頂上に戦車を出していた。キムは太い鋼鉄線を何本も使って戦車やその他の重車両を彼らが越えてきた高地から山にいれる方法を思いつく。
3日間の戦闘で戦力は著しく低下していた。無理ばかりを言う本部のダルキストから有線電話が入ったとき、キムは電話線を引きぬいて傍にいたシングルスに言った。「砲撃で電話線が不通になりました」
一方、最後の1兵となるまで死守せよとヒットラーから命令されていたドイツ軍も皆、徴兵された中高年か少年であり、こちらも疲弊していた。
余談ではあるが、連合軍のイギリス軍には植民地支配を受けていたインド人がいた。一方ドイツ軍にもインド兵がいた。ドイツ軍に参加した彼らは、祖国インドの独立を目指してイギリスと戦っていたのだ。戦争の妙である。
ひとたび戦車が高地を下ると進撃は早まった。部隊は一気に麓まで進む。
10月18日(19日?)、第3大隊は、夜明け前の霧雨の中、密かにブリュイエール市街に向けて進出。午前10時にA、B高地とブリュイエールの町に対して一斉砲撃を開始する。
このときA高地の麓でB中隊のサカエ タカハシ中隊長とキムが奇策をとっている。ふたりはあたかも戦う意志がないように振る舞い、隠れているドイツ軍に近づいていった。そしてドイツ兵に出てくるように手招きをする。しばらくして、信用した1人のドイツ兵が出てきた。タカハシ中隊長はドイツ兵の肩に手をかけタバコを勧めた。キム小隊長もドイツ兵の背中を親しげにたたいて他のドイツ兵にも出てくるよう手招きをした。安心したドイツ兵が次々と出てきた瞬間、B中隊が一気に前進し、100名以上を捕虜にした。このとき銃は一度も撃たれなかった。ただしこの話は別な説もある。散々戦車で砲撃したあと、2人は降伏を求めて手招きした。諦めかけた頃に40人ほどの兵が出てきたという話もある。
午後3時、第100大隊はついにA高地を攻略。つづいて午後4時30分に第2大隊がB高地を落とす。時を同じくして2世兵たち(おそらく第3大隊)がブリュイエールの街に現れる。彼らは北と西から1軒1軒敵兵を掃討して回った。
ブリュイエールの街中に住んでいた人々は皆地下室に潜んでいた。ちなみに彼らはドイツ兵をポッシュと呼んでおり、2世兵も住民との区別にこの言葉で対応している。レイモンコラン医師は地下室生活でもきちんとネクタイをして生活していた。彼はアメリカ戦闘機の音を聞きながらリベラシオン(解放)の日を待ち望んでいた。
彼はその日、砲撃のすさまじい音がやんでから、2階にあがってみた。部屋は半壊していた。そのとき階下で音がした。前日には、撤退するドイツ兵にプジョーを奪われたばかりだった。往診に回れなくなると抗議するとドイツ兵は「アメリカンから貰えるさ。彼らはヒューマンだそうだから」と言った。階下にいたのは2人の日本兵だった。コランは今度は日本軍が占領したのだと思った。コランが落胆していると日本兵は白い歯をニッと見せ「ハワイアン」と自分の胸を指した。ちなみにコラン医師の妻は解放を信じて娘をフランスと名づけていた。
ブリュイエールでは発電所がやられて電気が通っていなかった。水道もやられていた。食料も底をつきはじめていた。8月25日、ラジオで連合軍のパリ入城が報道され、多くの人が地下室でアメリカの国旗を作り始めていた。
その頃になると、ドイツの脱走兵もアメリカ軍が来るまでかくまって欲しいと地下室を訪ねるようになっていた。ドイツ軍といってもポーランド人や反ナチもいたわけである。
床屋の娘モニックは2世兵からチョコレートと白いパンを渡される。パンは普通のアメリカの食パンだが、物のない時期に育ったモニックには「ケーキみたいに柔らかく、天国の味のように甘かった」と感じられた。一方、日系兵もフランス人が地下に隠し持っていたワインを飲ませてもらったりしたようである。
ブリュイエール市街では大型コンクリート障害物がすべて第232戦闘工兵中隊により爆破された。
ドイツ軍と442連隊は激しい市街地戦を繰り広げ10月19日、ブリュイエールは4年ぶりに解放された。この戦闘で町の建物の約30%が破壊され、住民500名以上が死傷した。住民たちは背の低いアメリカ兵たちを歓迎するが、2世兵が留まるのは戦闘の間のわずか数日で、それ以降はあとからやってきた白人兵が2世兵の代わりに歓迎をうけている。
第100大隊はこの戦闘で2度目の大統領部隊感状を受けた。
参考資料
書籍
荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』1995平凡社
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』1983文藝春秋
渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』2003光人社
ジョーゼフD ハリントン 妹尾作太男訳『ヤンキー・サムライ』1981早川書房
山田太一『あめりか物語』1979日本放送出版協会
James B.Harris『ぼくは日本兵だった』1986旺文社
望月三起也『二世部隊物語1~7』2001集英社
ウェブ
『全米日系人博物館 ヒラサキ ナショナル リソースセンター』
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/nrc_jp.html
『Go For Broke National Education Center.』
http://www.goforbroke.org/default.asp
『The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史』
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
『二世部隊物語』
http://hawkeye.m78.com/442nd.htm
柏木 史楼『米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団—日系二世米兵の第二次世界大戦 The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦』
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/
『コロニア ニッケイ社会 ニュース』
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html
『第442連隊戦闘団 – Wikipedia』
なおレポートはもともと他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれません。ご容赦ください。