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テキサス大隊救出作戦
ルクセンブルグの南、スイスの北西、ドイツとフランスの国境に近いヴォージュ山地。1944年10月24日、第36師団141連隊第1大隊275名がビフォンテーヌから東に3キロという地点でドイツ軍に包囲される。141連隊所属第2大隊、第3大隊が救出するも失敗。飛行機で救援物資を投下したがすべて彼らに届いたわけではなかった。救出は困難とされ、この部隊は失われた大隊(Lost Battalion)と呼ばれるようになる。彼らはテキサス州出身の兵で編成されていたため、通称テキサス大隊と呼ばれた。
世論を気にしたルーズベルト大統領は、直接テキサス大隊の救出命令を出す。
ベルモンテで休息していた442連隊に移動命令が下る。4日間の休息が1日半で終わった。この命令に2世たちは、自分たちが消耗品として扱われていると苛立ちをみせる。
10月26日朝、充分な休養も得られなかった442連隊第2大隊がベルモンテを出発。141連隊所属第3大隊の前まで進む。しかし敵の反撃により前進できずに日が暮れる。その夜、ドイツ軍は精鋭の特殊部隊を新たに数百人補充した。
ちなみにこの時期の第36師団はたび重なる補充兵により、実はテキサス出身の兵は少なかった。
442によるテキサス大隊救出の4日間が始まる。失われた大隊は4キロ先。
1日目、10月27日早朝4時、第100大隊と第3大隊が救出作戦のため出発。第522野戦砲兵大隊は大砲の筒に医療品を詰め、テキサス大隊に撃ち込むことを試みる。救出部隊は冷たい雨の中、暗い森で待ち受けるドイツ軍と果敢に戦闘を繰り広げる。第3大隊は最も激しい抵抗を受ける。遅れを取り戻そうとするが戦車を先頭に立てた敵の攻撃でなかなか前に進めない。
右翼を攻めていた第100大隊は戦車2台のうち1台を地雷でやられ、もう1台は道幅が狭く動けなくなっていた。左翼の第2大隊は予備ともいえる位置だけにすんなり目標に達する。
2世兵たちは、敵の猛反撃で進撃が拒まれると、誰の命令でもなく1人が単身突撃し、自ら犠牲になって突破口を開いていった。それは遠く離れた太平洋で戦う日本の若者たちとどこか似ている。前進すればするほど死傷者の数は増えていった。
一方、失われた大隊の負傷兵たちも1人また1人と死んでいく。
アメリカ本土テキサス州では、人々がラジオにかじりついた。いや、世界中が442連隊の動向に注目していた。
2日目、28日午前6時30分、攻撃再開。敵は夜のうちに渓谷を見下ろす一帯へと広がり、戦車の数も増していた。8時20分までには第3大隊K中隊、I中隊が300メートル進むが、その後も第3大隊は多くの犠牲者を出す。なかなか進まない第3大隊に痺れをきらせたダルキストは自ら前線に赴いた。
第100大隊の敵は、昼過ぎに次の峰まで後退する。キムの後を継いでS3となったプードリー中尉が戦死。シングルスが各中隊長を集めたとき、彼の前に立ったのは少尉2名、曹長2名であった。動揺を隠しつつ作戦説明にはいったとき、師団長から連絡が入る。シングルスはかつてキムがやったように電線を引きちぎった。連隊長のペンスはシングルスのいる方に向かおうとしたジープの上で砲撃にあって負傷する。ダルキストはペンスから引き継いだヴァージル ミラーに小隊の動きにいたるまで細かく指示を出した。
夜、失われた大隊に向けてチョコレートを詰めた105ミリ砲が撃たれるが雨でぬかる地面に深く突き刺ささり、掘り起こせなかった。テキサス大隊の兵たちは救出を諦めず食べ物の話をして夜を過ごした。
3日目29日、第100大隊と第3大隊は日が昇るのを待って攻撃を再開。2世兵はこの日初めて自分たちの作戦がテキサス大隊救出であることを知らされる。
相変わらず敵は第3大隊を集中的に攻撃した。第3大隊は戦車の砲撃を浴び、動きがとれない。第100大隊は地雷原を右に迂回し、敵の側面を狙うが死傷者も続出。ダルキストは引き続きテキサス大隊を救出するよう前進を促す。この日、彼が「何人死んだって構わん。救助するまで押しまくれ」と通信しているのを受信機で聞いた2世兵がいた。同じ日、前線に出たダルキストは、常に供をしていたルイス中尉を死なせてしまう。
第100大隊ではシングルスが3中隊を揃えると近づけるだけ近づいて攻撃をしかけた。敵は少しずつ後退していく。
第3大隊の後方では敵が衛生兵1名を捕虜にし、通信線を切る。前方からは戦車による砲撃が止まない。ダルキストは引き続き第3大隊に前進するよう命令した。怒った大隊長パーセルは状況を見せるため師団長を連れて森に入る。こちらも戦車を先頭に出してはいるが、敵は上に位置している。2世兵は思うように攻撃できずにいた。自殺行為とも思える攻撃を第3大隊は続けた。機関銃の掃射、対戦車ロケット砲が降り注ぐ。周りの兵たちは次々と倒れていく。それでも2世兵たちは進んだ。斜面を3分の1進んだところで申し合わせたように兵の動きが止まる。1度止まると恐怖で動けなくなる。そのとき突然パーセルが飛び出して”OK boys Let’s go” と前進した。45ミリ口径の拳銃を両手に、ヘルメットすらしていない。兵たちは勇気を取り戻し狂信的に進んだ。午後6時頃、第3大隊は頂をとる。
4日目30日午前9時、第100大隊と第3大隊が攻撃を再開。第100大隊A中隊77名、B中隊76名、C中隊80名、第3大隊I中隊71名、(将校2名)、K中隊78名(I中隊から回った将校2名)、L中隊85名(将校3名)、M中隊102名(将校5名)。これが残っている全部の兵であった。しかもこの数字には実戦で戦わない本部、補給、衛生兵も含まれ、実際の兵力はもっと少なかった。
442連隊は危険を冒した作戦を試み、前日より速い進撃をする。午後2時頃、第3大隊I中隊の偵察隊がテキサス大隊に接触。その後、第100大隊B中隊第2小隊が右翼から突入。午後4時、テキサス大隊を救出した。しかしテキサス大隊211名を救出するために442連隊は800名(1,400名、1,940名という資料もあるが800名が有力)の死傷者をだした。資料によっては死傷率97%というものもある。
大統領部隊感状には次のように記されている。「戦闘は4日目に入り、兵は疲労し、兵力は半減していた。にもかかわらず、第100大隊は強力なドイツ軍の攻撃にもめけず前進し、孤立していた部隊救出に成功した。日系部隊が示した例をみない英雄行為、勇気、決意は、軍人精神が生きている証であり、アメリカ合衆国軍隊の最も輝かしい伝統のページに新たな栄光をもたらすものである」
この戦いは、のちにアメリカ陸軍の10大戦闘に数えられる。
救出後、テキサス大隊の兵士が「ジャップ」と言った話が複数残されている。2世兵が掴みかかって謝らせたとか、テキサスの大男が「ジャップが助けてくれた」と泣いて喜んだとかそんな話である。すべてが実話でないにしろ軽はずみな言動があったのは事実だろう。
テキサス大隊は喜んだが、2世兵の戦いはこれで終わらなかった。失われた大隊と接触した部隊はそのまま止まることなく前進する。ダルキストは救出の報告を受けるとすぐさま次の高地を目指して前進を命令していた。
翌日、ダルキストはまたしても第3大隊を先鋒として先を急がせていた。敵の砲撃は一向に弱まらず、敵機の爆撃も続いた。
11月1日、パーセルは第3大隊が200名になったので補充をするか、もしくは高地を退くかを要求する。しかしダルキストは拒否する。さらに翌2日には、居もしない第141連隊第3大隊が900メートル前方なので一刻も早くそこまで前進せよとの怪命令が下る。ダルキストの命令であった。第3大隊は既に捕虜を後方に送る兵すらいないほど人数が減っていた。パーセルは交代するよう要求するが、またしても無視される。兵たちの間に戦闘神経症が急増する。それまでの2世兵にはなかった行動が目立ち始める。衛生兵だろうと負傷兵だろうと投降兵だろうと条約無視の殺しを始める者が出る。その凄惨さはドイツ兵が日系に捕まるのを恐れ白人に捕まりたがるほどであった。
11月5日、442連隊の兵力は第100大隊A中隊67名、B中隊41名、C中隊66名、D中隊65名、第2大隊E中隊74名、F中隊80名、G中隊87名、H中隊75名、第3大隊I中隊34名、(以後4日のデータ)K中隊76名、L中隊97名。
11月6日、A中隊、C中隊にのみ森からでる命令がだされる。
11月8日、I中隊に残る兵がわずか4名となる。連隊S2(情報将校)がたまりかねて師団司令部に連絡した。「これはもう進撃ではなく偵察と言いたい」
2世兵が再び休息できたのは11月9日である。ヴォージュ山脈到着以来、戦死行方不明約200名、負傷約2,000名。
参考資料
書籍
荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』1995平凡社
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』1983文藝春秋
渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』2003光人社
ジョーゼフD ハリントン 妹尾作太男訳『ヤンキー・サムライ』1981早川書房
山田太一『あめりか物語』1979日本放送出版協会
James B.Harris『ぼくは日本兵だった』1986旺文社
望月三起也『二世部隊物語1~7』2001集英社
ウェブ
『全米日系人博物館 ヒラサキ ナショナル リソースセンター』
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/nrc_jp.html
『Go For Broke National Education Center.』
http://www.goforbroke.org/default.asp
『The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史』
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
『二世部隊物語』
http://hawkeye.m78.com/442nd.htm
柏木 史楼『米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団—日系二世米兵の第二次世界大戦 The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦』
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/
『コロニア ニッケイ社会 ニュース』
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html
『第442連隊戦闘団 – Wikipedia』
なおレポートはもともと他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれません。ご容赦ください。