442連隊に関するレポート その17 442連隊に関連する人物 ➀

【 大人を遊ぶ。ありきたりな日常を冒険する 】

【 Enjoying adulthood. Adventure at ordinary days. 】

掲載にいたる経緯

映画化したかった脚本がある。
第2次世界大戦で活躍した日系アメリカ人部隊の物語だ。
アメリカ人であるというアイデンティティをもちながら敵国人の息子として疎外された彼らと
アメリカに戻りたいのに事情があって許されない自分の人生が重なった。
脚本と参考資料は某脚本家の手に渡ったのち、まわりまわってあるプロデューサーまで行ったことまでは知っている。
たしか2010年代のことだったと思う。
しかしその先のことはわからない。
なにかあったとしてもこちらに声がかかることはなかった。
残念だがあきらめるしかない。

脚本を書くにあたり前段階として資料を読み漁ってレポートにまとめていた。
この資料作成作業は一時期筆者のライフワークとなっていた。
レポートによると最終編集が2009年4月22日になっている。
せっかくなのでこのページでそれを公表しようと思う。
少々重く硬いテーマでサイトのコンセプトと異なるが他に発表する場もないのでここに記していく。

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ルーズベルト大統領

 大統領令9066に署名。日本人に対し強い人種差別があることで知られている。
その一方で、1943年2月1日、ホワイトハウスで第442連隊編成を発表。次の言葉を残している。「忠誠なアメリカ市民ならば、祖先のいかんにかかわりなく誰であろうと、市民としての責任を行使する権利を否定されない。アメリカ建国の原理であるデモクラシー精神は心の問題であって、過去において人種や祖先によるものではなかったし、現在もその精神は生きている」

ハリー S トルーマン大統領

 次の大統領。強制収容所に批判的な立場をとっていた。

ドワイト D アイゼンハワー

 1953年から1961年までアメリカ大統領をつとめる。戦時中、ヨーロッパ最高司令官当時、イタリアのヴェルツレノ川に向かう道路で第100大隊の横を通り過ぎていた。そのときドイツ軍機の機銃掃射を受けて道端の溝に隠れる。のちにハワイ州上院議員となったサカエ タカハシと「君もあそこにいたのか」「イエス サー」「危ないところだったね」と会話している。エバーグリーン墓地の殉国碑には彼の言葉が刻まれている。「ここに眠る人々の犠牲において、我国は勝利と平和を得た。彼らに恩義ある我ら、ここに敬意を払う。ドワイトDアイゼンハワー」 

ジョージC マーシャル

 陸軍参謀総長。後に国務長官に就任。当時の日系人の政策にたいし同情的な立場をとった。「人種を理由にこれ以上アメリカ市民を圧することは無謀である。強制収容でその限界までやったではないか。もうたくさんだ」というメモが残されている。
陸軍省で日系部隊を前線に出すかどうか議論されたとき、マーシャルは参戦すべきと主張した。2世兵たちがヨーロッパ戦線に赴く前に、彼はマッカーサーやアイゼンハワーに日系2世部隊を送ろうかと打診したが、両者とも断っている。彼が執筆した伝記には日系部隊を指して飛び抜けて優秀Superbという表現がされている。

マーク ウェイン クラーク

 (1896~1984)ニューヨーク生まれ。アメリカ第5軍司令官。他の司令官が日系2世部隊の受け入れに難色を示すなか、マーク クラークは彼らを自軍の傘下に入れる。クラークは早くから日系2世部隊にたいし理解を示し、アイゼンハワーに「ありったけの日系2世兵を送ってほしい」と報告している。
 グスタヴライン突破のあと、クラークはマーシャルに書簡を送る。「日系2世兵は戦場で著しい戦いぶりをみせた。彼らのように優秀な兵をもったことはない。彼らの戦闘記録はずばぬけて顕著である。彼らはアメリカ軍の歴史に輝かしい1章を記した」
 独立記念日に第34師団を代表して442連隊にヘンリー スチムソンアメリカ陸軍長官の閲兵をうけさせたのも彼である。
兵士たちもまた、クラークを信頼し、尊敬していた。クラークや、後述するチャールズ ライダーのような理解者がいなければ、日系2世部隊が広くアメリカ社会に認められる機会は得られなかった。
 エバーグリーン墓地の殉国碑に彼の言葉が刻まれている。「イタリア戦線で私の指揮下にいた日系2世部隊が、いかに国家に忠誠で勇敢に戦ったか。それを、ここに眠る兵士は象徴している。私は心から彼らに敬意を表する。安らかに眠れ」

チャールズ ライダー

 第5軍 第34師団長。当時既に50代であり第1次大戦も経験している。
第34師団はヨーロッパ戦線に1番乗りで派遣され、アフリカ、イタリアと転戦していた。合言葉は「アタック、アタック、アタック」
ライダーは貰い手のなかった第100大隊を受け入れ、早くから日系2世兵を認める。彼は将校、下士官を集めるとリーダーシップが重要であり、前線では自ら先頭に立てと教えた。また初戦を勝てば兵士の士気は決して落ちないとして、初戦は勝たせてやると宣言。実際にサレルノ上陸以降は逃げるドイツ兵を追っていた。
第100大隊の白人将校がライダーに「なぜ、厳しい戦闘には第100大隊を押し出すのですか」と質問したとき、彼は「どうしても勝ちたい戦には最精鋭部隊を繰り出すのが当たり前だろう」と答えたという。
厳しい印象のある反面、こんなエピソードも残されている。ある休息の折、2世兵が手榴弾をつかって魚をとっていた。これは違法行為である。たまたま来ていたライダーは、見て見ぬふりをして「米や日系2世に合う靴は足りているのか」とキムにたずねて帰っていったという。また別なとき、兵士が蚊帳をつかって魚を捕っていた。こちらも違法行為である。それを背後でライダーが見ていた。ライダーは真顔で食べ物が回ってこないのかと心配した。

カーレイ マーシャル

 第100大隊が所属していた第133連隊の連隊長。多くの資料が悪いイメージで描写している。それというのもカッシーノの戦いラピド川渡河で、自殺行為と思える命令をしたためである。第133連隊はそれまでにも活躍していたはずなので、決して意地悪くも無能でもないと思うのだが。

ファラント F ターナー

中佐。最終は大佐。オリジナル第100大隊の大隊長。ハワイ出身。開戦前はホノルルの大きな木材会社の重役を務めていた。開戦後、アメリカ陸軍情報部長フィルダー大佐に、日系兵だけの大隊をつくりたいと相談をもちかけられ、47歳という年齢にもかかわらず即座に志願した。
2世兵からは「オヤジ Old man」と親しまれていた。彼は日系人に対する偏見を解くことに腐心した。マッコイ基地では休み明けの月曜日に兵たちを集合させ、地元で問題行動をとる兵たちを叱った。反面、地元の人々に日系人の理解を求めるよう出向いた。いつも問題を起こさぬようにと厳しく2世兵を諌めていたが、第2師団との大乱闘事件では2世を怒ると同時に、責任追及に来た第2師団長を追い返している。
第100大隊が北アフリカで鉄道警備にまわされとき、2世兵が前線に立てるよう再三、軍部に申し入れる。指揮官がこぞって彼らを欲しがった時も、また、危険な任務を押し付けられた時も、ターナーとラヴェルは、2世兵の武勲は必ずワシントンに報告し、従軍記者にも正確なコメントをすることを条件とした。また、新任の白人将校には必ずターナー自ら2世兵たちの境遇を伝え、よろしく頼むと訓示した。ターナーもラヴェルも戦闘のプロではなかったが、誰よりも2世兵を愛していた。
サレルノ上陸以降、第133連隊は最後尾を狙われることが多かった。先鋒をまかされていた第100大隊の大隊長であるターナーは人員配置の責任問題で叩かれ、最終的に偵察隊の失敗にたいし責任を取らされる形で休養、事実上解任される。彼の解任時期は、2世の気持ちを1つにし、アメリカ全土に日系をアピールするというターナーの役割から、実戦で指揮するプロの大隊長が必要とされた転換期だったとも言える。
また、多くの2世兵が死傷したことに責任を感じ、ターナーは精神を衰弱させる。
戦後、彼はもとの木材会社で社長を務める。

ジェームス ラヴェル

少佐。オリジナル第100大隊の副大隊長。ネブラスカ州出身。苦学して州立大学を卒業後、体育教師としてホノルルに渡る。以後日系2世のほとんどが学んだマッキンレー高校で体育を教え、やがて副校長になる。
ナショナルガード時代からターナーの右腕だった。真珠湾攻撃のときにはマカプー灯台周辺の警備をしている。第100大隊ができた当時は35歳。5歳の娘がいた。
マッコイ基地では毎週末、問題を起こす兵を警察まで引き取りに行くのが彼の仕事となっていた。ターナーと共に積極的に地元住民に、戦地では報道陣に接し2世部隊の境遇と使命をアピールした。
ヘビースモーカーだった彼は、サレルノ上陸で上陸舟艇が座礁したとき、慌てることなくタバコとライフルを頭上にあげた。
イタリアに上陸したあとの1943年10月、スクリーミングミミイと恐れられたロケット砲で右足を負傷。入院中にターナーが別れの挨拶に来る。
次々と部下の死体が運ばれてくるのを見ていられなくなり、無断で病院を抜け出しカッシーノの戦いの途中で復帰。直後、モンテカリバリオで再び重傷を負い、後送されて、その後戦場には戻らなかった。

ジェームス ギレスピー

 ターナーのあとを継いだ第100大隊大隊長。

カスパー クロウ

 ギレスビーのあとを継いだ第100大隊の大隊長。ニューヨーク出身。ウェストポイント出のプロの軍人。病院から戻ってきたキムを大隊司令部付きの情報将校(S2 中尉)に昇進させた。ラピド川の無謀な作戦を拒否したため解任される。記録上、負傷として後送された。

ジョージ デューイ

 少佐。クロウが解任された直後に連隊本部から大隊長に就任。

ジャック A ジョンソン ジュニア

 
少佐。ラヴェル負傷のあとを継ぎ、第100大隊 副大隊長となる。ハワイ出身。部下からは優しい上官と慕われていた。ハワイ大学ではフットボールの主将だった。ちなみにラヴェルはそのときのコーチ。卒業後、カウアイ島の製糖工場に務める。日曜日には日本人の子供たちを集めて野球を教えていた。パールハーバー攻撃の瞬間は、ナショナルガードとしてダグラス タナカと海岸線を警備している。その後、オリジナルの第100大隊に所属。600高地で負傷。カッシーノで連隊長マーシャル大佐の自殺行為とも思える作戦命令を受け、デューイとともに最前線を視察。そのとき砲弾の破片を受け重傷を負い、その場を離れようとしたときに地雷を踏む。救出されるも野戦病院で死亡。31歳だった。

ゴードン シングルス

中佐、フィラデルフィア出身。イギリス系の代々軍人の家庭に生まれる。アンツィオから第100大隊長として着任。当時38歳。ウェストポイント出。部下の意見を聴き、責任は自分で負うというスタイルを通し、決して高圧的な態度はとらなかった。キムを作戦将校(S3)として抜擢。
意外にも大隊長を務めるまで実戦経験は無かった。

チャールズ W ペンス

大佐。442連隊 連隊長。支那事変当時、中国に駐在し日本軍の戦闘を見聞きした経歴から、第442連隊の連隊長に命ぜられる。当初オリジナルの第100大隊をライバル視していた。兵たちに第100大隊のアドバイスを聞いてはいけないとまで言っていた。しかし、ベルヴェデーレの戦い以降、誰よりも先に第100大隊の強さを率直に認める。

ヴァージル R ミラー

 中佐。副連隊長。

ジョン アーネスト ダルキスト

中将。第7軍 第36師団長。フランスでの戦闘当時、彼は焦っていたといわれる。デスクワークの長かった彼は、大将に昇進するため名をあげたかった。北にはパットン将軍 率いる第3軍が、南には自由フランス軍第1軍があり、ドイツ1番乗りを争っていた。ヴォージュを突破すると そこはもうドイツである。
ダルキストは、慣れないながらも積極的に陣頭指揮をとった。A高地で待機していたC中隊オオタケ小隊は、ダルキストに直接 突撃命令をだされる。オオタケ小隊はC中隊本部に連絡することも許されぬまま突撃を行わざるを得なかった。オオタケ小隊長はそこで戦死する。オオタケ少尉の戦死を聞いてシングルスとブードリー中尉は怒りを覚えた。また、キム大尉は”Was that suicide or murder? “と吐き捨てた。
テキサス大隊救出作戦のときにも視察にあらわれ、自ら指揮をとろうとした。そばにいたC中隊のイチロー オカダ少尉は彼の非常識な命令に困惑する。しかしダルキストは手を撃たれ、おまけに隣にいたシンクレア ルイス ジュニア中尉が跳ねた弾に当たって死亡する。27歳だった。ダルキストは急いで前線を離れた。ちなみにルイス大尉の父はノーベル賞受賞者のシンクレア ルイス、母はピューリツァ賞受賞のドロシー トンプソン。
テキサス大隊救出後の1944年11月12日、セレモニーに集合した442連隊を見てダルキストが「全員整列させろといったはずだが」と言ったのに対し、連隊長代理ミラー中佐は「目の前に並ぶ兵が全員です」と答えた。第36師団編入時には2,943名いた兵員がそのとき800名ほどに減少していたのだ。
フランス戦線時の第100大隊長であったゴードン シングルスは、のちに准将に昇進した式典で、ダルキストとの握手を拒否した。また、ヤング キム大佐は1982年におこなわれた第100大隊結成40周年記念晩餐会の講演で、ダルキストの状況判断の鈍さと愚かな命令を徹底的に批判した。
彼の名誉のために、次のエピソードを記す。442連隊が再びイタリアを目指し、移動を始めたとき、1台のジープが追いかけてきてダルキストの私信を渡した。
1. 第442連隊戦闘団が配属を解かれ、他の作戦に移ることを第36師団は残念に思う。貴部隊が我が師団に属した1944年10月14日より11月18日の期間、どの部隊も遭遇したことのない困難な地形のもと激しい戦闘が繰り返された。
2. 貴部隊の将校、兵士が示した勇気と不屈の精神はこれまでアメリカ合衆国軍で示された如何なるものと比べても優るとも劣らないものであった。
3. 師団の全将校は全員一致して貴第442連隊戦闘団の全員に心からなる挨拶と感謝を贈り、そしてまた将来再び、貴部隊を我が師団の一員として迎え得る光栄にあずかりたいと祈るものである。

アルフレッド パーセル

 中佐。第3大隊長。部下からは信頼され、また彼も部下に命令することはなかった。テキサス大隊救出作戦のとき、ダルキストから「部下に戦闘準備をさせろ」と言われて将軍の胸ぐらをつかんだ。「貴様、俺の部下を殺す気か。貴様なんかに殺させてたまるか。もし攻撃するなら俺が先頭で行く」パーセルは「戦い方を教えてやる」と言うとダルキストを前線まで連れて行った。そのときにルイス大尉が撃たれる。パーセルはルイスの状況を確認したあと、これが戦争だとダルキストに説明し、自らK中隊の先頭に立って銃を撃ちながら一気に丘を駆け上って行った。

パーシング ナカダ

 第232戦闘工兵中隊長。442連隊で最初の日系人将校。ナカダは土木工学で学位を取っており建設作業員の監督ができた。その力量を買われて日系人将校として初めて採用される。
同じく従軍牧師のマサオ ヤマダ、ヒロ ヒグチと軍医も士官階級が当てられるので、彼らも最初の日系人将校といえる。

ヤング オーク キム

 最終の階級は大佐。1919年1月26日、ロサンゼルス バンカーヒルに生まれる。韓国系2世。身長168センチ。両親は大の日本人嫌い。父は日本統治に我慢できずアメリカに亡命している。
第1回ロサンゼルス選抜徴兵に最初に選ばれる。真珠湾攻撃の日は休暇でのちの妻となる韓国系の看護婦とサンフランシスコで過ごすつもりでいた。ちなみに彼女は妻となった後、従軍看護婦としてイギリスに送られる。1943年2月、フォートベニング陸軍将校養成学校に入学。IQテストで驚異的な成績をだす。卒業後、シェルビー基地で訓練していた第100大隊に配属される。当時24歳。
第100大隊にはよく間違って中国系や韓国系の将校が配属された。当然彼らはすぐに転属を希望する。そんななか「韓国系と日系はうまくいっていないからすぐに転属させよう」と言うターナーの勧めを断り、キムはB中隊の第2小隊長になる。お互いアメリカ人であるという理由からである。
B中隊の2世兵は、当初キムを嫌った。
部下の扱いが厳しい反面、怒鳴ることはなく、同じ食堂で食事をし、同じ服を着ていた。上官だから優れているという考えを持たず、常に同じチームの一員という意識で任務にあたった。キムにたいする兵の信頼感が絶対になったのは戦場に出てからである。戦場での恐怖から判断を誤る将校、下士官が多発するなか、キムは常に冷静に兵を率いた。将校の中には訓練中威勢のいいことばかり言って、戦場では部下を盾にするような者もいた。そんな中キムは常に先頭に立った。部下の命を守るために上官にたてつくこともしばしばであった。
大隊長から「大尉に昇進し、大隊本部付にならないか」と求められたとき、B中隊を離れたくないという理由から一度断っている。ヘルメットをかぶることを嫌い、ニットキャップがトレードマークだった。
孤立したビフォンテーヌで守備を固めようと指示して回っていとき手を負傷し、翌日担架で運ばれているところをドイツ軍に包囲される。彼はモルヒネを打たれていたにもかかわらず素早く森の中を逃げだした。そのスピードは健康な兵でもついていくのがやっとのくらいであった。
戦後、キムはゴーフォーブロークモニュメントの建設に奔走した。

参考資料

書籍
荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』1995平凡社
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』1983文藝春秋
渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』2003光人社
ジョーゼフD ハリントン 妹尾作太男訳『ヤンキー・サムライ』1981早川書房
山田太一『あめりか物語』1979日本放送出版協会
James B.Harris『ぼくは日本兵だった』1986旺文社
望月三起也『二世部隊物語1~7』2001集英社

ウェブ
『全米日系人博物館 ヒラサキ ナショナル リソースセンター』 
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/nrc_jp.html
『Go For Broke National Education Center.』
http://www.goforbroke.org/default.asp

『The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史』
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
『二世部隊物語』
http://hawkeye.m78.com/442nd.htm
柏木 史楼『米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団—日系二世米兵の第二次世界大戦 The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦』
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/
『コロニア ニッケイ社会 ニュース』
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html
『第442連隊戦闘団 – Wikipedia』

なおレポートはもともと他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれません。ご容赦ください。

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