第2次世界大戦で活躍した日系アメリカ人部隊の物語だ。
脚本はまわりまわってあるプロデューサーが読んでくれたというところまでは聞かされている。
たしか2010年代のことだったと思う。
そのあとはどうなったのか知らない。
残念だがあきらめるしかない。
脚本を書くにあたり前段階として資料を読み漁ってレポートにまとめていた。
この資料作成の作業は一時期筆者のライフワークとなっていた。
レポートによると最終編集が2009年4月22日ということになっている。
せっかくなのでこのページでそれを公表しようと思う。
サイトのコンセプトからして少々硬く重いテーマではあるが他に発表する場もないので。
なおレポートは他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれない。
ご容赦ください。
1.日系移民について
1868年(明治元年)6月19日、153名(146名?163名?)の日本人が出稼ぎでハワイに渡航した。契約は1ヶ月26日間労働で賃金4ドル。3年契約だった。最初の移民である彼らはのちに元年者と呼ばれる。しかしハワイでの移民の待遇はアメリカ南部の黒人奴隷となんら変わらず、明治政府は一時移民を停止した。
その後、1885年になって官約移民が再開される。官約移民とは日本とハワイ王国との政府間条約による移民のことで、のちに行われた企業との契約による私約移民と区別されてこう呼ばれるようになった。最初の官約移民で102名の児童を含む948名の日本人移民がハワイに渡った。その後10年間で25,000名の日本人が渡航する。当時多かったのは山口県、広島県からの移民であった。
1893年、明治政府は移民保護規制を定めると同時に移民に関する業務を民間に委ねた。
日系移民はハワイのみにとどまらず、アメリカ本土へも移動していった。アメリカ西部の鉄道は、中国人(Chink)と日本人(Jap)の手で作られたと言われている。また日本人移民は積極的に土地を耕し、いちご、ぶどう、トマト、生花などを生産するようになる。カリフォルニアの牛島謹爾はじゃがいもで成功し、ポテトキングと呼ばれた。長沢鼎(かなえ)はぶどうで成功し、グレープキングと呼ばれた。
1890年の時点でアメリカ本土に2,039名の日本人が住んでいた。
ハワイに移民した日本人男性の苦労の1つに嫁探しがあった。ハワイには該当する女性が少なく、帰国して嫁探しするほどの金銭的余裕もなかった。そこで考えられたのがピクチャーブライド、写真花嫁である。これは文字通り写真のみで互いに相手を決めて、花嫁が渡航する方法である。直接会ったことはなく、写真や経歴にごまかしが生じるだろうから、トラブルが多発したことは容易に想像できる。写真修正で皺を上手に取る写真屋は移民から人気があった。
ワシントン州の鉄道敷設労働者ナカムラは10数年前に豪邸で写した写真を送り、日本から写真花嫁を迎えた。夫の真の姿を知った女は「こんな男と生涯暮らすのはいや」と乗ってきた船で帰って行った。
サンマテオ近郊に住む庭師のカノウは、「アメリカの大学を卒業し、銀行に勤めています」と嘘の手紙にそれらしい写真を添えて日本に送った。親戚が大学出の才色兼備な花嫁を送ってよこした。カノウは本当のことを言いだせず、そのまま銀行員の振りをした。毎朝きちんと背広を着て乗用車で家を出、近所に住む両親のところで仕事着に着替え、トラックに乗りかえて庭仕事に出かけた。仕事が終わると、両親宅でシャワーを浴び、また背広に着替えて家に戻った。しかし、賢い妻が夫の不自然なふるまいを見破るのにそう時間はかからなかった。夫の正体を知り驚いたものの、その後も2人は幸せに暮らした。
写真花嫁は1908年に成立された日米紳士協定とも大きく関係している。日米紳士協定以降、日本からの一般移民は禁止された。しかし、家族の呼び寄せは例外とされ、写真花嫁はその例外に含まれた。要するに労働者が合法的に移民する唯一の方法が写真花嫁とその家族だったということである。
写真花嫁はこの1908年から排日移民法の実施された1924年まで大量にハワイへと渡っていった。その数は20,000名とも70,000名といわれる。
ちなみに与謝野晶子は1918年の邦字新聞で写真花嫁を批判している。
いずれにしろ、こういった背景でハワイの日本人、日系人の人口は増加していった。
1896年 (明治29年)2,078名
1916年 (明治33年)3,721名
1910年 (明治43年)19,889名
1920年 (大正9年)49,016名
1929年 (昭和4年)87,746名
1933年 (昭和8年)103,467名
1934年 (昭和9年)105,957名
1938年 (昭和13年)116,584名
1939年 (昭和14年)119,361名
1世はパイナップルやサトウキビ農場の労働者として移民してきた。彼らは劣悪な労働条件に幾度か他民族とストライキを起こした。その都度、絶対的な立場である白人から手痛い攻撃をうけたが、徐々に労働環境改善に成功していく。
その子供たちである2世は、公立学校でアメリカの民主主義を学び、寺院や日本語学校で日本の心を学んだ。この日本の心が、のちに2世部隊のアメリカへの忠誠心に繋がる。またこの2重教育は、日本人としてのアイデンティティとアメリカ人としてのアイデンティティの葛藤を起こさせもした。
親の熱心な教育のおかげで、2世たちは1世たちよりも生活を向上させることに成功した。しかし一握りの白人たちの支配から逃れることはできなかった。
アメリカ本土でも2世の就職事情は厳しく、大卒でも親と同じ庭師になるのがやっとだった。
なお、このレポートでは2世兵と記述しているが、3世兵も数多く存在する。むしろ年代を考慮すると3世と表現するほうが自然である。なぜこのようなズレが生じるのか? その原因は1世が結婚した年齢にある。貧しい労働者として働いていた1世は、総じて晩婚となり、孫と言ってもおかしくない年齢差の子供をもった。
開戦前、ハワイにおける日本人、日系人の人口は159,500名。ハワイ全人口の34.2%に達していた。日本語学校の数は161校。また、アメリカ西海岸にも約126,000名の日本人、日系人が生活をしていた。
アメリカにおける日系部隊は第100大隊が初めてではない。442連隊が編成される26年前の1917年、第1次世界大戦において、日本人だけのD歩兵中隊第1ハワイ歩兵連隊が存在した。
なお、真珠湾攻撃の1年前、1940年11月には、アメリカで第1回選抜徴兵制がはじまり、開戦直後には第298部隊、第299部隊あわせて約1,500名の日系兵がハワイを守っていた。
1941年12月7日、午前7時55分(アメリカ東部時間)ハワイ オアフ島ホノルル市パールハーバーのアメリカ海軍基地が日本軍に爆撃され、戦艦アリゾナ他が撃沈される。ホノルル市内では40ヶ所以上も爆撃され68名の民間人が死亡した。ただし、日本機の攻撃は真珠湾に集中したため、これら民間人の被害はアメリカ軍の対空砲火によるものがほとんどである。
パールハーバーが攻撃されたことに、ダニエル イノウエをはじめとする、ハワイ在住の日系2世、3世の多くが日本軍にたいし強い憤りを感じた。その1例を次に紹介する。ローレンス サカモト ――「自分はアメリカ人になりきったつもりである。アメリカのために武器を執って戦うことも敢えて辞さない。祖国ではあるが日本の来襲を憎んでいるのである。宣戦布告もせずに攻めかかってきたのだから、明らかにこれは騙まし討ちだ。私達のことを考えの中に入れているのだろうか。アメリカには三〇万人の日系人がいる。真珠湾の奇襲は明らかに私達を無視したやり方ではないか。無視しているばかりではない。ハワイ在住の日系人の額に一人残らず不信任の烙印を焼きつけた暴挙だ。私達は公憤に駆られた。アメリカ軍に参加して日本の誤謬を叩き直さなければ、承知できないと考えたのである」
なお、現在では真珠湾攻撃が奇襲だったかどうか疑問視する声が大きい。
アメリカ陸軍ハワイ駐屯司令部は直ちにハワイ全土に夜間外出禁止令を発令する。全島が厳戒体制に入った。アルコール類の販売禁止、火気、銃器、短波放送受信機、交信機器、フラッシュライト、カメラ、ハワイの地図の所持禁止、1ヶ月400ドル以上の引き出し禁止、2名以上の会合禁止。基地によっては門前に「ジャップ、ドイツ野郎、犬は入るべからず」の貼り紙がはられ、銃剣付ライフルをもった海兵隊が日系兵を塞いだ。また、攻撃と同時にたくさんの日本人移民がFBIに連行された。そのなかには拷問された人もいる。
ハワイ諸島の1つにイギリス人が個人所有するニイハウ島がある。真珠湾攻撃のとき、この島に日本軍の戦闘機が不時着した話が残っている。有名なのは管理をまかされていた日本人もしくは日系2世が日本兵を助け、やがて自らも自決に追い込まれるというものである。ハワイ原住民が日本兵を殺したという話もある。『ブリエラの解放者たち』ではその遺族レイモンド ハラダが名誉回復のため442連隊に志願しているが、一方この話を題材にしたエピソードもあるフィクション『あめりか物語』の脚注では作り話と主張している。ノンフィクションの方が事実として取り上げ、フィクションの方が嘘と主張するまれな事例である。
参考資料
書籍
荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』1995平凡社
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』1983文藝春秋
渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』2003光人社
ジョーゼフD ハリントン 妹尾作太男訳『ヤンキー・サムライ』1981早川書房
山田太一『あめりか物語』1979日本放送出版協会
James B.Harris『ぼくは日本兵だった』1986旺文社
望月三起也『二世部隊物語1~7』2001集英社
ウェブ
『全米日系人博物館 ヒラサキ ナショナル リソースセンター』
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/nrc_jp.html
『Go For Broke National Education Center.』
http://www.goforbroke.org/default.asp
『The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史』
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
『二世部隊物語』
http://hawkeye.m78.com/442nd.htm
柏木 史楼『米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団—日系二世米兵の第二次世界大戦 The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦』
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/
『コロニア ニッケイ社会 ニュース』
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html
『第442連隊戦闘団 – Wikipedia』
リンク
442連隊に関するレポート その3
442連隊に関するレポート その4
442連隊に関するレポート その5
442連隊に関するレポート その6
442連隊に関するレポート その7