ここからは第100大隊、第442連隊を語るうえでかかせない日系人強制収容所について記述していく。
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- 掲載にいたる経緯
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- 排日運動
- 排日土地法Alien Land Law
- 排日移民法Asian Exclusion Act
- 主な排日暴動
- 日系人強制収容所収監構想
- 大統領命令9066号
- デウィットの差別発言 ”A Jap is a Jap.”
- マンソン報告
- 立ち退き
- 強制収容所所在地と収容人員<
- ハワイの収容所<
- 強制収容所の様子<<
- 参考資料<
掲載にいたる経緯
映画化したかった脚本がある。
第2次世界大戦で活躍した日系アメリカ人部隊の物語だ。
アメリカ人であるというアイデンティティをもちながら敵国人の息子として疎外された彼らと
アメリカに戻りたいのに事情があって許されない自分の人生が重なった。
脚本と参考資料は某脚本家の手に渡ったのち、まわりまわってあるプロデューサーまで行ったことまでは知っている。
たしか2010年代のことだったと思う。
しかしその先のことはわからない。
なにかあったとしてもこちらに声がかかることはなかった。
残念だがあきらめるしかない。
脚本を書くにあたり前段階として資料を読み漁ってレポートにまとめていた。
この資料作成作業は一時期筆者のライフワークとなっていた。
レポートによると最終編集が2009年4月22日になっている。
せっかくなのでこのページでそれを公表しようと思う。
少々重く硬いテーマでサイトのコンセプトと異なるが他に発表する場もないのでここに記していく。
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442連隊に関するレポート その18
442連隊に関するレポート その19
442連隊に関するレポート その20 その他の日系人部隊
排日運動
アメリカ人による日本人差別、排日感情の歴史。
1893年、サンフランシスコ教育委員会は日本人にたいして公立学校入学を拒否するという決議を発表した。これはアメリカ西部のみならず、日本政府、ワシントンDCを巻き込む問題へと発展した。
1905年2月23日、日刊紙「サンフランシスコクロニクル」の一面に、「日本人の侵略-現代の問題」という見出しが掲載され、厳しい反日キャンペーンが始まる。
1905年5月14日、アジア人排斥同盟がサンフランシスコで結成される。この日が正式な反日運動の始まりとされる。
1906年、アメリカ連邦議会は帰化法を改正。このとき日本人は帰化不能のリストに入れられなかったが、司法省は各裁判所に日本人の帰化申請を拒否するよう訓令を出す。この措置はさらなる反応を呼び、すでに帰化した者まで遡って市民権を剥奪するという事態が起きる。
1907年、大統領令により、日本人の、ハワイ、メキシコ、カナダからの転航移民が禁止される。
続く1908年、アメリカとの関係を懸念した日本政府は、一般の観光旅行者や学生以外の日本人にアメリカ行き旅券を発行しないという日米紳士協定を結ぶ。これにより、日本人労働移民のアメリカ渡航が制限された。
ちなみに、排日運動が過熱していく西海岸に比べ、ニューヨークを中心とする東海岸ではどちらかといえば友好的な雰囲気だった。とはいえ、就職となると東部、西部関わらず暗黙の制限があった。
排日土地法Alien Land Law
1907年2月、カリフォルニア議会で初めて日本人の土地所有禁止の法案が提出される。1913年5月19日、排日土地法案が議会を通過。これにより、日本人はカリフォルニア州の土地所有を禁止される。借地も3年までである。これにより日本人が開拓した農地がうばわれる。
1920年、排日土地法改定により借地権も取り上げられる。
カリフォルニア州にならって他州でも次々に排日土地法が可決された。
この排日土地法は、正確には外国人土地法であり、どこにもJapaneseという明記は無い。しかしながら当時、対象を日本人に絞っていたことは明白だった。
カリフォルニア州では1956年になってやっと撤廃が決定する。最後まで残していた州は1966年のワシントン州である。
排日移民法Asian Exclusion Act
1924年、5月26日、カルバン クーリッジ大統領が署名し、日本からの労働移民を全面的に禁止する排日移民法が決まる。
正確には排日移民法という法律は存在せず、あくまで既存の移民、帰化法の修正案である。もともと日本人に対する差別はどこにもなく、議会で議論を重ねるうちに、反日感情をもつ議員の都合のいいように作り変えられてしまったのが真相である。
1952年、戦後から7年かかって、やっと排日移民法が廃止される。
主な排日暴動
第2次世界大戦より前の話ではあるが、主な排日暴動をここにあげる。
ヴァカビル暴動事件、サザンパシフィック鉄道工事での夜間襲撃事件、ヴァンクーバー暴動、トゥーロック強制撤去事件など。西海岸のある町では公然と「日本人おことわり」”No Jap”という看板が掲げられたこともある。
日系人強制収容所収監構想
日米開戦に先立つ5年前1936年、フランクリンD ルーズベルト大統領が対日有事を想定し、ハワイの日系人を強制収容所に収監する計画を検討した。海軍作戦部長にあてられた覚書には「日本船舶、乗組員に接触するオアフ島の日系人の身元を極秘に洗い出し、有事の際、強制収容所に送り込む名簿を作成しておくべき」と提案されている。
大統領命令9066号
アメリカ本土では開戦直後、危険とみなされた2,192名の日本人が逮捕され、銀行預金の封鎖、銃器や短波放送受信機の所持の禁止などが実施された。1942年1月29日、連邦法務長官令により太平洋沿岸一帯が保安地域に指定され、すべての敵国人(つまり日本人)はこの地域からの移動を命じられる。
世論はヒステリックに日本人の立ち退きを求め、2月19日、遂にルーズベルトは大統領命令9066号に署名する。
1.特定地域から住民を排除する権限を陸軍省に認める。
2.これにともないWRA(強制収容所管理事務局)を設置する。
特定地域とは太平洋沿岸を指す。これにより収容所に立ち退いた日本人、日系アメリカ人は120,313名にのぼる。彼らは手に持てるだけの荷物しか持っていくことを許されず、政府が救済措置として資産の預かりを申し出たものの、信用しなかった大半が財産を安値で売り渡した。当時の日系人が手放した資産は総計4億ドルに上る。ちなみに政府が預かった物はのちに紛失したという資料もあるが、大抵はきちんと持ち主に返還されたようである。
第1次世界大戦の復員軍人だった、ある移民1世はロサンゼルスのホテルに部屋を借り自殺する。彼の手には、人生を賭して手に入れた合衆国名誉市民証が握られていた。
フランシス ビドル司法長官は強制収容にたいし「西海岸の反日感情に迎合し日系人の所有する農地を手に入れようとする利益誘導が絡んでいる」と強く批判している。
なお強制収容はアメリカ全土ではなく、あくまで中心は西海岸である。例えばユタ州では戦中もそのままの生活を日系人は続けていた。
デウィットの差別発言 ”A Jap is a Jap.”
西部沿岸防衛司令長官ジョンL デウィットは、アメリカ本土に住む日本人のほとんどを強制収容した。日本人だけではなく、日本人の血が8分の1以上入っている2世、3世までも強制収用した。彼はこの理由を「ジャップはジャップである。彼らがアメリカに忠誠心を持っていようといまいと危険分子であることに変わりはない。アメリカ市民であろうとなかろうと理論的に彼らはジャップであり、それを変えることはできない」” A Jap is a Jap. It makes no difference whether he is an American Citizen or not…I don’t want them…They are dangerous element.”と発言した。皮肉にもハワイの志願兵が442連隊としてシェラビーの兵舎に入った1943年4月13日にデウィットはこの演説をしている。さらに彼は「現時点でジャップによる破壊行為が行われていないという事実こそが今後ジャップによる破壊行為が行われる兆候である」という破綻した理論を展開した。これらの発言にみられるように、日系人の強制収容は人種差別の意味合いが強い。実際ドイツ系やイタリア系の収容はごく一部の者が短期的にされたのみである。この違いについて、当時「人口が多くて収容不能」「日本人に比べて危険性が少ない」の2つの理由があげられたが後述のマンソン報告では日系人がドイツ系やイタリア系よりも危険だという証拠は見あたらなかった。
冗談の域と推測されるが、当時のメジャーリーグにイタリア系のジョーディマジオに匹敵する日系人プレーヤーがいなかったことが最大の要因という説もある。
なおデウィットはのちに「自分は間違っていたかもしれない」と公式に言明している。
マンソン報告
1941年10月から11月前半にかけて、大統領情報部はアメリカ本土とハワイに住む日系アメリカ人および日本人の忠誠度を調査した。情報部員のカーティス B マンソンは25ページの詳細なレポートにまとめ「90パーセント以上の日系2世、75パーセント以上の1世は合衆国に対して忠誠で、ドイツ系移民、イタリア系移民と比べて、日系人を特別視する必要性はない」と報告した。
立ち退き
1942年2月25日、海軍はロサンゼルス、ターミナル島に住む日系アメリカ人にたいし、48時間以内に立ち退くよう命令。これが最初の集団強制立ち退き命令となる。
3月2日、ジョンL デウィットが、軍事地域第1区と第2区を指定する布告第1号を発布。カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州の西部とアリゾナ州の一部が第1区に指定され、残り全域が第2区に指定された。この公布は、軍事地域第1区から人々を立ち退かせることを意図していた。
3月24日、陸軍による最初の市民立ち退き命令が、シアトル近郊のベインブリッジ島地区に発令される。45家族の日系アメリカ人が立ち退きの準備に与えられた時間はたったの1週間だった。10月末までに108件の立ち退き命令が出され、軍事地域第1区全域と、カリフォルニア州の第2区に住むすべての日系アメリカ人が強制収容された。
3月27日 、陸軍は軍事地域第1区から住所を変更することを禁じた布告第4号を発布。事実上、自主的立ち退きが出来なくなる。
5月8日、ポストン収容所に最初の収容者が到着。この日から3週間で7,450人の収容者が鉄条網の中に転居した。
強制収容所所在地と収容人員
カリフォルニア州 | マンザナーManzanar | 6/1/42 – 11/21/45 | 10,045名 |
カリフォルニア州 | ツールレイクTule Lake | 5/27/42 – 3/20/46 | 18,789名 |
アリゾナ州 | ポストンPoston | 5/8/42 – 11/28/45 | 17,814名 |
アリゾナ州 | ギラリバーGila River | 7/20/42 – 11/10/45 | 13,348名 |
ユタ州 | トパーズTopaz | 9/11/42 – 10/31/45 | 8,130名 |
ワイオミング州 | ハートマウンテンHeart Mountain | 8/12/42 – 11/10/45 | 10,767名 |
アーカンソー州 | ローアーRohwer | 9/18/42 – 11/30/45 | 8,475名 |
アーカンソー州 | ジェロームJerome | 10/6/42 – 6/30/44 | 8,497名 |
アイダホ州 | ミニドガMinidoka | 8/10/42 – 10/28/45 | 9,397名 |
コロラド州 | グラナダ Granada (アマチ) | 8/27/42 – 10/15/45 | 7,318名 |
合計112,580名 |
なお、合計人数が、前述の120,313名と誤差があるが、どちらが正しいのかは今のところわからない。
ちなみにポストンはネイティブアメリカンの居留地に設けられている。色々な意味で象徴的である。
また、このほかにもニューヨーク、マンハッタン島の近くにある、エリス島の移民者収容施設にも、日系人と日本人移民約8,000名が収容された。
しかし、この事実はなぜかあまり触れられていない。おそらく観光地の印象を懸念しているのではないかと想像される。エリス島は自由の女神が立つリバティ島の近くでもあり、現在、観光用フェリーがマンハッタン→リバティ島→エリス島→マンハッタンと回っている。
エリス島は過去にヨーロッパから来た移民を一時収容し、検閲が終わった後、本土に入れるためにあった。余談だがゴットファーザーパートⅡでドン コルレオーネが初めてコルレオーネと呼ばれるのがたぶんこの場所。
本土では、上にあげた施設以外にも、強制収容所へ送るまでの期間、一時的に拘留するために設けられたセンターが16ヶ所あった。最も悪名高いのは、サンタアニタやタンフォランの競馬場である。日系人たちに割り当てられたのは、悪臭立ち込める馬舎だった。大きな食堂でいっせいに食べる食事は、長蛇の列と食器の鳴る騒々しさで人々を閉口させた。
この他にもトラブルメーカーとされた者が収容された司法省管轄の収容所および市民隔離収容所などが各地に設けられた。
ハワイの収容所
開戦と同時に、マスコミ、宗教家、日本語学校教師など日本人社会の指導者と目される約600名がFBIに逮捕され、ホノルル港外のサンドアイランド収容所に抑留された。警察官だったヨシダは、このとき職務としてFBIの後につき1世に銃をむけている。彼はのちに442連隊に志願した。
翌1942年2月から、さらに男性694名、女性8名がアメリカ大陸のローズバーグ、サンタフェその他の収容所に移動。
その後、サンドアイランドは1943年3月に閉鎖され、324名がホノルル抑留所に移動した。このほかにマウイ、カウアイ、ハワイ、モロカイ、ラナイにも抑留所が設けられた。
ハワイでも本土のようにすべての日系人を収容するよう要請は出ていた。しかし、人口の3分の1が日系人であったため、すべて収容されることはなかった。
FBIを悪者にばかりしてはかわいそうなので、良い所を1つ書いておこう。ハワイ諸島でのFBI責任者であるロバート シバースは日系の立場に同情的だったという。彼は開戦直後に2世で組織された緊急対策委員会(ESC)の中心人物に「この戦争は君ら日系人にとって忠誠をしめす絶好の機会かもしれない」と言った。
強制収容所の様子
一部の者が法的に訴えはしたものの、ほとんどの日本人移民、日系人はアメリカの指示におとなしく従った。彼らの従順さのおかげで、強制収容所への移動はスムーズに行われた。
いずれも荒涼とした砂漠地帯に設けられた収容所は、有刺鉄線に囲まれ、監視塔から銃を持った兵士が監視していた。開設当初は無秩序だったとはいえ、ここには、住居、工場、農場、病院、床屋や雑貨屋などの商店、食堂、学校、教会、劇場、賭博場まであり、これらの施設で働く者には、月19ドル以下の給与が与えられた。商店では外部から仕入れた物を購入できた。
強制収容所内における移動は自由だが、例外を除き外部に出ることは許されない。
住居は隙間だらけの壁にタール紙を張り合わせたバラックというべきものだった。天井には裸電球が1つさがっていた。1フィート何名という計算で、世帯数は無視して建てられていたため、複数の世帯が同居する場面もあった。もちろん、ろくな仕切りは無い。最低限ある家具も粗末なものだった。器用な日系人は自分たちで材料を調達しては家具を作ったり壁を修繕したりした。バラックの前に池などをつくり、ちょっとした日本庭園風にしあげた家庭もあったようだ。
収容所内では、農場、養豚、養鶏、豆腐や醤油なども作られていたようである。1世は野菜づくりに熟達しており、自給自足を目的とした農作物は、やがて外部の白人家庭の食卓にも並ぶようになった。また、所内ではアルコール類の密造がさかんに行われていたようである。
リクリエーションとして野球やバスケットボール、フットボールなどのスポーツが行われた。合唱クラブもあった。学校では、外部から教師がやってきて授業を行ったりもした。皮肉にも外部教師の教えるテーマが「民主主義」ということもあったようだが。教会は各種パーティーを主催し、集会所ではダンスパーティーも実施された。ボーイスカウトも組織されている。
ラジオの所持は許されていた。日本語新聞については、発行が許されないとする資料もあるが、ポストン新聞という表が日本語、裏が英語という新聞も存在している。いずれにしても検閲は受けたであろう。
戦争により、己のアイデンティティを試された日本移民、日系人らは、親日派 対 反日派、親米派 対 反米派、管理者側につくイヌ、スパイと呼ばれた者 対 反管理者側など各々に別れて対立した。1942年のクリスマス時期にはマンザナーにおいて帰米を中心に反米派の暴動が起きている。このとき、イヌの代表格マイク マサオカを模したわら人形が燃やされた。これをうけWRA(War Relocation Authority 強制収容所管理事務局)はマサオカの母など親米派と思われる人々を収容所の外に非難させることとなった。また、いくつかの収容所で政府やWRAへの不満からストライキが起きいている。しかし、隔離された社会なのでストを起こしても損害をこうむるのは結局日系人自身だった。
農作物の刈り入れ時期になると一部の日系人が外に出て月19ドル程度で農場に働きに出ていた。勤勉な日系人は季節労働者として重宝された。彼らは仕事が終わると、何事もなく収容所に帰ってきたらしい。
なお、各収容所での生活は収容所所長の考えにより管理にかなりの差が出ていたようである。例えばポストンでは用足し程度なら外に出ることが許されていた。
強制収容所には、スタートレックなどで有名な俳優、ジョージ タケイもいた。彼は少年時代をツールレイク収容所で過ごした。画家のジミィ ツトム ミリキタニもツールレイクで3年半を過ごした。日本人の父とアメリカ人の母をもつ芸術家のイサム ノグチは、自ら強制収容所に出向いた。しかし彼は強制収容所内でガイジン、スパイと差別され、居づらくなって出所を求める。ところが今度はアメリカ側がイサムを日本人だとして外に出してくれなかった。ジャニー喜多川も一時期、家族と過ごしていたらしい。写真家の宮武東洋は、収容所内での日系人の様子を写真に収めた。
意外にも、苦労した日本人1世のなかには重労働と明日の生活に困る心配のなくなった収容所の生活に、むしろ安堵した者もいた。
参考資料
書籍
荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』1995平凡社
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』1983文藝春秋
渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』2003光人社
ジョーゼフD ハリントン 妹尾作太男訳『ヤンキー・サムライ』1981早川書房
山田太一『あめりか物語』1979日本放送出版協会
James B.Harris『ぼくは日本兵だった』1986旺文社
望月三起也『二世部隊物語1~7』2001集英社
ウェブ
『全米日系人博物館 ヒラサキ ナショナル リソースセンター』
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/nrc_jp.html
『Go For Broke National Education Center.』
http://www.goforbroke.org/default.asp
『The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史』
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
『二世部隊物語』
http://hawkeye.m78.com/442nd.htm
柏木 史楼『米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団—日系二世米兵の第二次世界大戦 The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦』
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/
『コロニア ニッケイ社会 ニュース』
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html
『第442連隊戦闘団 – Wikipedia』
なおレポートはもともと他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれません。ご容赦ください。