第2次世界大戦で活躍した日系アメリカ人部隊の物語だ。
脚本はまわりまわってあるプロデューサーが読んでくれたというところまでは聞かされている。
たしか2010年代のことだったと思う。
そのあとどうなったかは知らない。
残念だがあきらめるしかない。
脚本を書くにあたり前段階として資料を読み漁ってレポートにまとめていた。
この資料作成の作業は一時期筆者のライフワークとなっていた。
レポートによると最終編集が2009年4月22日ということになっている。
せっかくなのでこのページでそれを公表しようと思う。
サイトのコンセプトからして少々硬く重いテーマではあるが他に発表する場もないので。
なおレポートは他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれない。
ご容赦ください。
マッコイ基地
軍は第100大隊にたいし、保全、修理部隊として本土に残ることを勧めたが、将校以下、2世兵たちは前線で戦うことを希望する。
第100大隊はオークランド港から3方向に分かれた列車で進む。窓には黒いシャッターがおろされ開けることを禁じられていた。何度か止まった駅には地元赤十字の若い女性がコーヒーとドーナツを差し入れた。
3方向に分かれた列車がまた集結し止まった先には、鉄条網と監視塔が待っていた。多くの2世兵たちが強制収容所に入れられるものと落胆した。しかし列車は20~30分でまた動き出しマッコイ基地に入る。ちなみに彼らがみた鉄条網は基地の一角につくられた抑留所であり、日本、ドイツ、イタリア人の危険人物とされる人々が収容された場所だった。
2世兵たちはろくに建物もないこのウィスコンシン州マッコイ基地で6ヶ月の訓練をうけることとなる。彼らに最初に与えられた仕事は、先の抑留所に収容された日系1世の散歩の監視だった。ここで悲劇の再開を果した父子もいたらしい。また、ハワイ2世たちは生まれて初めての雪、ホワイトクリスマスをここで迎える。
2世兵はいずれの訓練にもその優秀さを示した。例えば機関銃を組み立てる訓練では、陸軍のマニュアルで16秒、白人エリート士官候補生で平均11秒かかるのにたいし、2世兵の平均はたったの5秒だった。第100大隊の平均身長は160センチと他の部隊より低いにも関わらず、220㎝の壁をすべての装備をつけてよじ登る障壁コースでも良い成績を出す。また、機関銃分隊の行軍速度は、白人部隊の平均が時速2.5キロにたいし第100大隊は時速3.3キロだった。
2世たちはジャップと言われるとすぐに喧嘩をはじめた。基地内での白人兵士との喧嘩は日常茶飯事だった。マッコイ基地では第2師団の白人と大乱闘事件を起こしているが、この第2師団、なにかと因縁のあるテキサス出身の兵である。病院送りにしたテキサンは38名、2世兵はわずか1名だった。ちなみにテキサスはメキシコ国境にあるため、第2師団にはメキシコ系も多数いたが、彼らとは喧嘩をしなかったようである。
例外的ではあろうが、2世兵たちは軍慰問協会をつうじて地元民からも少しずつ受け入れらていったようである。
1943年1月6日、第100大隊はミシシッピー州シェルビー基地に移駐し、さらに訓練を重ねた。ここでは便宜上第85師団に配属されている。
5月末、陸軍地上部隊本部長レズリー マクネア中将が査察。マクネアは訓練結果に大いに満足してワシントンへと帰っていった。
なお、1942年10月31日から5ヶ月間、B中隊第3小隊の26名が特別任務のためミシシッピー州、シップ島とキャット島で活動している。この任務とは、犬に日本人特有の匂いを覚えさせ、日本人を攻撃させる訓練だった。この犬たちは2世兵になついたり、アメリカ兵に噛みついたりしたらしい。
第100大隊 北アフリカに到着
1943年2月、第100大隊の成績が優秀だったことに自信を持ち、軍は第442連隊戦闘部隊の編成を決定する。
一方、第100大隊は訓練を終え、10日間の休暇を与えられた。ハワイに帰る暇もない2世たちは、アーカンソー州のローアー強制収容所を訪れる。そのとき初めて、本土の日本人、日系人の実情を知り、彼らは衝撃を受ける。
8月21日、第100大隊は摩天楼の夜景を眺めながらニューヨーク港スタッテン島を出航する。次の文章は自由の女神を見たツキヤマが、のちに友に送った手紙である――「風になびく栄光の松明を高々と揚げたその姿を見た時、脊髄を何かが走り抜け五感が痺れた。この像に象徴される自由と人権の建国精神、それは時を超え、たとえ像が塵となるまで破壊されたとしても、永遠に人々の心の中に生き残る希望の火だ。自分が信じたいと思っていることはやはり生き残り得る真実なのだ。ああ、この自分の国アメリカを愛する。言葉を超えた限りない愛を感じる。これが僕の国だ」
9月2日、第100大隊はジブラルタル海峡を経て北アフリカ、オラン(アルジェリア)に到着する。2世兵たちは、美しい眼だけを出した女性、三日月のようなナイフをもった男たち、アラブ人たちを初めて見る。
2世兵が前線に出るためには、どこかの師団に配属されなければいけない。私生児などと呼ばれ、貰い手がいそうも無い第100大隊は、カサブランカ-チュニジア間を走る補給列車の警備を割り当てられる。大隊長のターナーは再三前線への配備を申し入れた。
ちょうど空きがでた第5軍第34師団のチャールズ ライダーが彼らの意欲を買い、晴れて第100大隊は第5軍 第34師団 第133連隊に配属となる。ライダーはターナーを呼びつけると聞いた。「彼らの戦意を信用できるんだな」ターナーは答えた”Absolutely”。このとき正式には第100大隊から第2大隊もしくは第3大隊に名称が変更されるべきだが、第100大隊の名称はそのまま残される。また、第100大隊は日系としての特別なマークを付けるよう要求されたがターナーは差別であるとして断固拒否した。
第100大隊ヨーロッパへ サレルノ上陸
第100大隊がオランに到着して間もない1943年9月8日、イタリアは連合軍に無条件降伏をする。しかし依然として半島はドイツ軍が占領していた。連合軍のイタリア進攻は大きく4段階に分けられる。①サレルノ上陸。②補給路として重要なナポリ港と近くの飛行場を押える。③続いてローマ市街とその間にある道路鉄道の要点を押える。④さらに北上し、やはり補給にかかせないリヴォルノ港とフィレンツェの後方連絡上での用地を占領。
精鋭を配したドイツ軍の抵抗により、第5軍はサレルノで釘付にされていた。第34師団は予定を繰り上げてイタリアへ。9月22日午前10時、第100大隊は上陸用舟艇でイタリア、サレルノ港に上陸。ドイツ軍は既に北方へと撤退し始めていたため、第100大隊は無傷で上陸する。上陸はかなり荒っぽく、多くの舟艇が座礁した。ターナーの乗ったジープもそのまま海に突っ込み1度沈んでから海辺まで走ったという。このとき運転手は要領よくスノーケルをくわえていた。
2世兵はついにヨーロッパ戦線に立った。第5軍に緊急連絡が回る。「日系アメリカ人で編成された大隊が、イタリア戦線に到着。彼らはアメリカ市民としての誇りを強く持っている。各司令官はその点に留意し、戦闘中など混乱時、誤射のないよう注意されたし」
9月25日、第100大隊はトラックに分乗して先行く連合軍を追う。イタリアは通年より早く雨季がきていた。
2世兵はブドウ畑やオリーブ林が続くイタリア半島を北に進む。主な任務は、後退するドイツ軍の先回りをして北方に通じる道路を遮断することである。
9月28日、最初の負傷者が出る。D中隊重火器小隊コンラッド ツカヤマ軍曹が、地雷を踏んだトレーラーの爆発に巻き込まれ負傷。
9月29日、モンテマラノからチウサノに向かう途中ドイツ軍と遭遇、初めての実戦を経験する。この日、部隊は最初の戦死者を出す。この時期の日系2世兵は勇敢とは言えず、敵の攻撃で混乱に陥ってしまう。ある者は両手で穴を掘ろうとした。またある者は泥の地面に鼻を押し付けてさらに平たくなろうと胸のタバコを放り投げた。そんな中冷静さを失わなかったのがキムだった。キム率いるB中隊第2小隊は激しい銃撃で街道脇に釘付けになるものの、キムの判断で敵の死角となる懐に飛び込む。キムに追随した兵は助かるが、恐怖で動けなかった隊が犠牲となる。
その後、ドイツ軍と激戦を繰り返し、第100大隊はベネヴェントまで北上した。10月15日の時点で戦死3名、重傷23名、負傷13名。
ドイツ軍の戦術は優れており、常に高地を陣取って上から正確に狙ってきた。狙撃兵は最後尾を狙うことが多く、先頭に立って歩いた第100大隊はしばしば責任を問われた。またドイツ軍は撤退するときに必ず地雷を埋めていった。
多くの2世兵がドイツ軍の武器の優秀さについて次のように語っている。「アメリカ軍の大砲は火を噴くため、すぐに場所が特定された。一方ドイツ軍の機関銃や大砲は火を噴かないので、どこから撃ってきたのか分からなかった」ある2世兵は「アメリカの機関銃はダッダッダッ。ドイツのはタタタタタ」と表現し、また別の2世兵は「アメリカの機関銃はポンポンという感じで、ドイツの機関銃はブルブルッという音で煙もでない」と表現している。
2世兵が収容される病院では人種差別は見られなかったようである。むしろ日系人は我慢強いので看護婦にもてたという話もある。負傷したドイツ兵も一緒に治療された。ここがアメリカらしい。ラジオで味方の劣勢を聞くと無理をして退院、あるいは脱走をして戦場に戻った者もいた。
なお、イタリア高地での輸送はもっぱらロバが使われていた。笑い話にすると申し訳ないが、言うことを聞かないロバを蹴ったら、蹴り返されて負傷した2世兵がいる。
第100大隊が所属する第133連隊は10月25日、サンアンジェロ、ドラゴニを経てナポリの北60キロにあるアリーフェに到達。連隊で200名以上の死傷者を出し、うち第100大隊の死傷者は88名だった。
ナポリ フォッジア作戦
地中海側のナポリと、アドリア海側のフォッジアに挟まれた山岳地帯での戦闘をナポリ フォッジア作戦と呼ぶ。フォッジアには唯一大型機発着可能な飛行場があり、ここを抑えればドイツ南部、バルカン半島一帯が連合軍の爆撃範囲となる。ドイツ軍は、山地から蛇行して流れ、ナポリの北で(南で?)地中海に出るヴェルツレノ川を第1の防衛線とし、同時に北方24キロのグスタヴラインに第2の陣地を固めつつあった。
11月3日、第5軍は難攻していたヴェルツレノ陣地にたいし一挙に攻めようと部隊を横一列に展開する。第100大隊を含む第133連隊は、数カ所に分かれヴェルツレノ川渡河作戦を決行。深夜、第100大隊が腰まで浸かって川を渡ると、すぐに攻撃をうける。味方の誤射であった。
対岸に上陸し第1大隊の左後方、師団の最左翼につく。2世兵は戦車、自走砲、地雷による犠牲者をだしながらもオリーブの林を進軍した。
この頃できた話でバンザイ突撃というものがある。代表的なものを挙げる。2世兵が銃を撃とうとすると、故障していたのか発射できず、諦めずに側にあったスコップを振り上げて突進した。それからというもの危機に面したとき、一斉射撃をしてから銃剣を着けて突撃するようになった。さすがのドイツ兵も怯えて逃げ出してしまう。
別な説もある。ある夜、突然機銃掃射を受ける。先頭のキム率いるB中隊第2小隊がほふく前進で敵に接近したが、逆に接近しすぎて身動きが取れなくなってしまう。後方の兵たちは支援のつもりか、恐怖からか、一斉射撃を行い、銃剣を付けて突撃した。第2小隊は敵と味方に挟まれてしまった。のちにこの事実を記者が武勇伝に作り変えたという。どうやらこちらが真実らしい。
もう1つある。ヴェルツレノ川を渡ったあと、キム率いるB中隊第2小隊が先頭に立った。キムとB中隊長の間で口論があり、中隊長は反対方向に向かうが地雷原にぶつかる。しかたなく口出ししないという約束でキムがまた先頭を行く。しかしまたもや中隊長が口を出す。もめた末にキムが説明しようと土手を登ると、近くのドイツ兵に気づかれ攻撃をうける。キムは土手といけがきとの浅い溝に飛び込み中隊長は道に転がり戻る。誰かが命令を出し、闇雲に撃ってくる。キムは挟み撃ちにあって必死に平たくなろうとあせった。やっと射撃が止まったと思ったそのとき、味方が銃剣を付けて突撃してきた。遠くにいた別の中隊では、そのときの声を聞いて「バンザイ突撃だ」と言った。
このあともキムと中隊長はもめて、結果中隊長が道に迷ってしまう。このとき第100大隊は初めて自力で捕虜を捕まえる。
11月3日、第133連隊長のカーレイ マーシャルから590高地、600高地、610高地の攻撃命令をうける。他の部隊による550高地奪回の援護である。このときジョン ジョンソン大尉、タロー スズキ大尉、スパーク マツナガらが地雷で負傷した。600高地では、キムが20名を率いて70名以上のドイツ兵をおびき出した。このとき彼は足に銃弾を受け、ナポリの病院に5週間入院する。
11月15日の時点で戦死75名、重傷239名。
一方ドイツ軍も逃げないアメリカ兵に初めて遭遇し恐怖した。しかもなぜか同盟国であるはずの日本兵がいると言うので彼らは大いに困惑した。
第100大隊は翌年1月までナポリ フォッジア作戦に従事する。戦死118名、戦病死者21名、行方不明者3名、重傷410名。6個中隊が4個中隊になるまで減少した。
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参考資料
書籍
荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』1995平凡社
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』1983文藝春秋
渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』2003光人社
ジョーゼフD ハリントン 妹尾作太男訳『ヤンキー・サムライ』1981早川書房
山田太一『あめりか物語』1979日本放送出版協会
James B.Harris『ぼくは日本兵だった』1986旺文社
望月三起也『二世部隊物語1~7』2001集英社
ウェブ
『全米日系人博物館 ヒラサキ ナショナル リソースセンター』
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/nrc_jp.html
『Go For Broke National Education Center.』
http://www.goforbroke.org/default.asp
『The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史』
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
『二世部隊物語』
http://hawkeye.m78.com/442nd.htm
柏木 史楼『米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団—日系二世米兵の第二次世界大戦 The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦』
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/
『コロニア ニッケイ社会 ニュース』
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html
『第442連隊戦闘団 – Wikipedia』
なおレポートはもともと他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれません。ご容赦ください。