第2次世界大戦で活躍した日系アメリカ人部隊の物語だ。
脚本はまわりまわってあるプロデューサーが読んでくれたというところまでは聞かされている。
たしか2010年代のことだったと思う。
そのあとどうなったかは知らない。
残念だがあきらめるしかない。
脚本を書くにあたり前段階として資料を読み漁ってレポートにまとめていた。
この資料作成の作業は一時期筆者のライフワークとなっていた。
レポートによると最終編集が2009年4月22日ということになっている。
せっかくなのでこのページでそれを公表しようと思う。
サイトのコンセプトからして少々硬く重いテーマではあるが他に発表する場もないので。
なおレポートは他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれない。
ご容赦ください。
グスタヴラインその1‐カッシーノの戦い
イタリア半島の東にあるアドリア海と、西にある地中海を結ぶ全長300キロの山岳地帯に、ローマを守るドイツ軍第2の防衛線グスタヴラインがある。グスタヴラインはアウトバーンを設計したフリット トット博士が設計した。
微笑のアルベルトと呼ばれた名将アルベルト ケッセルリンク元帥率いるドイツ軍は、ナポリ フォッジア作戦で飛行場死守に失敗する。ケッセルリンクはグスタヴラインまで引き下がり、立て直しを計った。
第5軍は連合軍の第1次総攻撃に参戦する。第100大隊は要塞を撃破しつつ北上、カッシーノの近くまで進行した。カッシーノは高地に囲まれた峡谷の町で、ローマに通じる幹線道路の要衝である。ラピド川が町に沿うように流れ、東方に標高516(490?)メートルのモンテカッシーノがある。この山はグスタヴラインの中で最も重要な位置にあった。頂上には歴史的遺産であるベネディクト派修道院が建てられている。
連合軍がローマに進出するには、ラピド川を渡河し、周辺の高地とカッシーノ市街、そしてモンテカッシーノを攻めなければいけなかった。カッシーノの戦いは4ヶ月にもおよぶ熾烈な長期戦となる。
2度目のクリスマスを迎えて、大晦日の朝、第100大隊はオリーブの林を抜けカッシーノに向けて進撃する。しかし、吹雪とドイツ軍の猛撃に拒まれ困難を極めた。多くのハワイ出身者が足を凍傷させた。1月7日、1190高地を占領。13日ドイツ軍が後退し始める。
1月20日、アメリカ第5軍第34師団および第36師団(テキサス師団)にカッシーノ攻撃命令が下る。その手前、ラピド川を渡るには、敵の長距離砲、迫撃砲、機関銃、地雷を避けながら、堀と壁と有刺鉄線を越えなければいけない。ドイツ軍はあらかじめ上流に造ったダムを開き水攻めにした。連隊長マーシャル大佐の自殺行為ともいうべき突撃命令に、第100大隊のみならず白人部隊の将校たちまでもが反対した。ある白人部隊将校は「どうしても部下を行かせると言うのなら、俺が先頭に立つ」と言って、実際に帰らぬ人となった。
1月24日夜、先発の第36師団はラピド川手前の土手にたどり着くこともできぬまま壊滅状態に陥る。戦後、テキサス州は大失策として第5軍司令官クラークを名指しし下院での調査を訴えるほどだった。
同日、第100大隊A中隊とC中隊が土手に向けて進軍を始める。サレルノ上陸以来多くの死傷者を出し、6個中隊から4個中隊にまで縮小していた第100大隊は、この頃、中隊長全員が日系2世将校となっていた。A中隊ミツ フクダ、B中隊サカエ タカハシ、C中隊リチャード ミズタ、D中隊ジャック ミズハ。
敵の攻撃に兵士たちが次々に息絶えていく。土手にたどり着けたのは、A中隊長フクダ大尉 他ごくわずかだった。
第133連隊長のマーシャルは、続く後続部隊の前進をクロウ大隊長に命令。無謀な作戦と判断したクロウは命令を拒否。マーシャルはクロウを解任し、代理として連隊司令部のデューイ少佐を派遣した。
現地に着いたデューイは、クロウの意見が正しいと主張しクロウ大隊長復帰を求めた。しかしマーシャルは聞き入れず、明朝の攻撃再開を要請する。デューイは状況把握をするため、フクダ大尉を呼び戻して道案内をさせ、副大隊長ジョンソン少佐と通信兵、当番兵と共に闇にまぎれて土手に向かう。先頭のフクダ大尉が再び土手に着いた頃、ドイツ軍が牽制射撃をした。銃弾が地雷を誘発させ当番兵が即死。デューイとジョンソンは重傷を負ってその場で動けなくなる。決死の衛生兵が救出に向かうが、ジョンソンはその後、息を引き取る。
翌日、B中隊は将校と兵士とで相談し、やれるところまでやってみようと前進を始める。わずかに生き残った11名が土手に到達した。日中死んだ振りをして夜になって動き出した者もいた。だが連隊司令部から撤退命令が下る。ドイツ軍の銃撃の中を再び兵士たちは引き返した。こうして第1次カッシーノ総攻撃は失敗に終わる。
AP通信はこのときの模様を次のように報道した。「もし涙を活字にできるなら、この記事は一面涙で濡れるだろう。記者は、任務を超えた勇気とはどのようなものか、この眼で確認した。日系2世兵がラピド川の対岸に突進し40分以上も確保した。残念ながらドイツ軍の砲撃により退却したものの、勝利した戦いですら、これ以上の栄光は勝ち得ないだろう。もし彼らの忠誠心を疑う者がいるのなら、記者は議論などしない。ただそいつの顔を蹴飛ばすだけだ」
矢野徹『442』では、「あの川こそ、俺たちの未来なんだぞ」と言って2世兵が向かっていく姿が描写されている。
この時期からやっと第100大隊は、第5軍のマーク、レッドブルを付けさせてもらえるようになる。
第1次総攻撃 失敗後もカッシーノ各地で戦闘は続いた。第100大隊は一旦後方に退いたものの、2月上旬には再び戦闘に駆り出される。次の目標はモンテカッシーノ高地に連なるモンテカリバリオと呼ばれる北西の高地である。ちょうど同じ頃、ドイツ軍ケッセルリンクはカッシーノ死守の切り札としてモンテカリバリオにシュルツ大佐の精鋭部隊を移動させていた。
第100大隊はキャッスルヒルと呼ばれる遮蔽物の少ない高地で、精鋭相手に不利な戦いを強いられた。僅かな動きにも反応して猛射を受けるという状況下、多くの死傷者を出しながら4日間持ち場を譲らず奮戦する。しかし2月中旬、撤退命令により後退。170名いたA中隊はカッシーノ戦闘後23名に減っていた。
第100大隊全体の死傷者は、戦死48名、負傷145名、サレルノ上陸以来5ヶ月で兵力は521名と半減した。
3月、第100大隊は激戦のカッシーノを離れ、第1時補充兵を迎えてアンツィオにむかう。
モンテカッシーノについては5月18日、ポーランドの部隊が1,600門の大砲と3,000機の空軍に助けられて頂上を占領している。
ベネディクト派修道院
モンテカッシーノ山頂にあるベネディクト派修道院については連合国側とドイツ側の意見が現在でも分かれている。
ドイツ軍は修道院を要塞として利用したことはないと主張。それどころかドイツの司令官は部隊にたいし歴史的遺産である修道院使用を禁止していたという。バチカン法王の陳情を守った形である。
一方、連合国側のニュージーランド人フレイバーグ将軍は修道院がドイツ軍の要塞に違いないとアメリカ軍による空爆を要請。2月15日、229機のB-17が飛来し、修道院とその周辺に600トンの爆弾を投下した。空爆に続いて連合軍の砲兵部隊からカッシーノ市街に向けて8時間、200,000発にもおよぶ砲撃が行われる。これにより592(529?)年に建てられた貴重な文化遺産であるベネディクト派修道院は、絵画、文献等の歴史的遺産とともに跡形もなく破壊されてしまう。(現在、建物は復元されている)
皮肉にも爆撃後、ドイツ軍は残された地下室を利用して、こんどこそモンテカッシーノ頂上を要塞化した。その後、2度の攻撃によりやっとポーランド軍が落としたのである。
グスタヴラインその2-アンツィオ
連合軍は第5軍と対峙するドイツ軍の戦力分散を計り、ローマ南東のアンツィオに第6軍を上陸させる。しかし上陸部隊は待ち伏せを警戒するあまり進撃を停止してしまう。ドイツの名将ケッセルリンクはこの機会を見逃さず、ただちにドイツ軍第14軍をアンツィオに振り向けた。挟み撃ちどころか両軍は共に膠着状態に陥いる。カッシーノ、アンツィオの戦況はさらに泥沼化していった。
1944年3月26日、第100大隊はナポリに後退し、グスタヴラインの西端アンツィオに再上陸する。4月には第2補充兵が到着し、部隊の兵力は1,095名になった。
4月、ノーマンズランドと呼ばれるドイツ軍、連合軍共に足を踏み入れない中間地点、敵の最前線に移動。
5月18日、ついにカッシーノのドイツ軍が撤退を開始。これに伴いアンツィオでも5月23日の総攻撃が決定した。敵の情報がまったく掴めていない第34師団にとって、偵察が最優先課題となる。ライダー師団長は戦車を使った大掛かりな偵察を試み、失敗に終わった。キム中尉は「小人数を付けてくれれば捕虜を取ってきて見せる」と提案したが、司令部は消極的だった。
結局、キムはアービング アカホシ1等兵と古巣B中隊の3名とともにノーマンズランドを通ってドイツ軍陣地に向かう。この時期、両軍共に夜間偵察が日常だったため、誰もが昼夜逆転していた。緊張が解ける明け方に行動を開始。熟睡していた軍曹他1名のドイツ兵を捕虜とした。
こうしてドイツ軍部隊の情報を得た第5軍は予定通り総攻撃を開始。この功績により、ライダー師団長はキムとアカホシに殊勲十字章(DSC)を推挙した。
5月23日(4月?)、第100大隊とは別の第34師団2個連隊がアルバノ高地攻撃に失敗。その日の午後にライダー師団長は「第100大隊ならできる」と攻撃を命令。翌日、第100大隊はライダーの期待に応えアルバノ高地を攻略。
実はこの戦いには謎がある。6,000名を有する2個連隊が失敗して、なぜか1,000名の第100大隊が成功してしまう。「2個連隊のうち半数以上の兵士が発砲しなかった」というのが定説らしい。ローマまで20キロという地点で、白人はローマに銃を向けるのを嫌ったのだろうか? もう1つ。第100大隊は午前10時にはすでに目標付近に到達していた。にもかかわらず、彼らを援護するはずの後方からの砲弾が、なぜか第100大隊の目の前に落ちるため、2世兵はそれ以上前進できなかったという。結局、攻略は夕方になってしまった。
この時期、ドイツ軍に電話線を傍受された際、暗号替りにピジンイングリッシュと日本語を混ぜて通話したという話が残っている。
第100大隊がアルバノ高地を攻略したことにより、アメリカ第5軍と第8軍がグスタヴラインを突破。ローマにつづく国道6号線、7号線が確保された。
ちなみに日系2世が戦ったサレルノ、カッシーノ、アンツィオの激戦は影が薄い。それというのも1944年6月6日の、ノルマンディー上陸作戦が華々しく世界に伝えられたためである。
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参考資料
書籍
荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』1995平凡社
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』1983文藝春秋
渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』2003光人社
ジョーゼフD ハリントン 妹尾作太男訳『ヤンキー・サムライ』1981早川書房
山田太一『あめりか物語』1979日本放送出版協会
James B.Harris『ぼくは日本兵だった』1986旺文社
望月三起也『二世部隊物語1~7』2001集英社
ウェブ
『全米日系人博物館 ヒラサキ ナショナル リソースセンター』
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/nrc_jp.html
『Go For Broke National Education Center.』
http://www.goforbroke.org/default.asp
『The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史』
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
『二世部隊物語』
http://hawkeye.m78.com/442nd.htm
柏木 史楼『米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団—日系二世米兵の第二次世界大戦 The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦』
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/
『コロニア ニッケイ社会 ニュース』
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html
『第442連隊戦闘団 – Wikipedia』
なおレポートはもともと他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれません。ご容赦ください。