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442連隊442nd Regimental Combat Team
※前回まで日系アメリカ人の歴史と第100大隊について掲載してきたがついに442連隊が登場する。
日系部隊を検討する委員会
1942年6月、第100大隊がマッコイ基地に入った頃、陸軍省長官ヘンリー L スチムソンは「市民権の有無に関わらず、日本人を祖先とする者を新たに兵役に受け入れない」とした。その一方で同じ陸軍省の参謀情報部(G2)では『ヨーロッパ戦へ送る日系人部隊を検討する委員会』が発足しようとしていた。
7月1日、委員会が発足。陸軍省各参謀部から5人の大佐と強制収容所を管理するWRAのデロン マイヤー局長が参加した。幾人かの大佐が絶対反対をしめすなか、日系に同情的なG2極東責任者のMぺディグルー大佐は「彼らのように良質な人力を使わないのはアメリカ軍にとって大きな損失」と賛成にまわる。他にも日系問題に関わっていた数人の大佐が同意見をしめす。マイヤーも「彼らに忠誠をしめす機会を与えるべき」と進言した。ハワイのエモンズからも意見が寄せられ賛成を表明した。
そんななか委員会が最も尊重したのはデウィット中将の意見である。委員会は2世兵を労務雑役に利用すると決定、兵站局に意見を求めるが黒人にたいする影響を理由に断わられる。結局、9月24日の時点で委員会は部隊編成に反対と決定。デウィットについては後述する強制収容所の項に詳しい。
それでもハワイ、本土の2世はそれぞれに部隊編成への努力を続けた。ハワイでは陸軍次官ジョン マックロイ視察の折、わざわざトリプルVの熱心に働く姿を見せるためにフィルダーは視察ルートを入念に取り決めた。
10月、ワシントンでは日本軍によるプロパガンダが問題となった。日本軍はアメリカの強制収容所をプロパガンダに利用し、この戦争を人種偏見と戦う人種戦争とうたった。これに対し2世部隊の編成は有効なカウンタープロパガンダになる。小委員会が出した決定は、わずか1ヶ月で陸軍省各局の賛意をえて逆転、2世部隊編成が決定した。
442連隊の誕生
1943年1月、アメリカ政府は日系2世の兵役凍結解除を決定。第100大隊の訓練の優秀さ、強制収容所内で結成されたJACLの建白書、トリプルVの嘆願書などが実を結んだ。
2月から白人将校と本土出身2世を中心に、兵たちがシェルビー基地に集まる。開戦前から陸軍に在籍し1度ロビンソン基地に集められた本土2世兵が下士官として集められたのだ。ここに日系人による連隊が編制された。第442連隊戦闘部隊(442nd Regimental Combat Team)の誕生である。最初の頃は訓練が半分、バラックのような建物の修理に半分の時間が費やされた。
同じ頃、軍部はハワイから1,500名、本土から3,000名(1,500名ずつ?)志願兵を募集した。トリプルVは優先的に志願できたようである。ハワイでは定員1,500名にたいし6倍以上の志願があった。一方本土からの反応は鈍かった。比較的公平にあつかわれたハワイ2世と、強制収容所に入れられた本土2世との違いである。結果として陸軍はハワイで再募集をかけた。最終的にハワイからは2,686名、本土の強制収容所からは800名(1,181名や1,500名、1,800名という資料もある)の日系2世が入隊する。資料によりばらつきがあるものの、ハワイからの志願が圧倒的に多かったのは間違いない。なお、どの資料にも本土からの志願が少ないことを強調しているが、実際には全収容所のうち100人に1人は志願しているので必ずしも少なくはない。
ハワイ2世はホノルル商工会議所の主催でイオラニ宮殿にて壮行会をおこない10,000人以上の前で首からレイをさげて行進した。一方、本土2世は強制収容所で裏切り者と罵られ、明け方隠れるようにトラックに乗りこむ。
ハワイ2世VS本土2世
1943年4月13日、志願兵がシェラビー基地に到着。当初4,500名の編成だったようである。5月、本格的な訓練が開始。早速ハワイ出身者と本土出身者との間に対立が起きた。ハワイ出身者はピジンイングリッシュといわれる強いなまりで話し、本土出身者の失笑をかった。ハワイ出身者は本土出身者をカトンクス、自分たちをブッダヘッズと呼んでからかった。ハワイ出身者がシェラビーに着いたときには、既に下士官が本土出身者で占められていたのもハワイ出身者にはおもしろくなかった。さまざまな資料で両者の違いが描かれており、特にハワイ出身者が多いために本土出身者が蔑まされる表現が多いが、松原は両者の特徴がそのままアメリカ人と日本人の違いに等しいことに注目している。本土出身者は個人主義で冷淡と誤解されがちだが、精神的に、より大人でパブリックとプライバシーをきちんと分ける傾向がある。一方ハワイ出身者は人懐こくて明るいという表現が多いが、依存心が強く、内か外かで態度をかえる傾向(いわゆる島国根性)がある。ある程度ばらけて住み、よりアメリカナイズされていった本土出身者と、日系で固まるどころか出身県で固まっていたほどに日系社会で生きてきたハワイ出身者の違いであろう。経済観念にしてもそれが如実に表れている。本土出身者の多くが少ない月給から強制収容所の両親に仕送りしたのにたいし、ハワイ出身者は親から小遣いを送ってもらっていた。
ハワイ2世はギャングアップと呼ばれる、本土2世を標的にしたリンチを繰り返した。彼らは必ず数人のグループで1人を襲った。道を歩いていただけで見知らぬ数名に囲まれた本土2世もいる。ベッドで眠っているうちに狙われることもある。本土2世のなかには終戦後も戦友会には顔をださない者もいた。実は現在でもハワイと本土との交流は微妙なようで、それぞれ独自に442の歴史を残そうとしている傾向が見られる。
しかし、基地内ではそんな反目もやがておさまっていったようである。
また、シェルビー基地内では、日系人同士だけではなく、白人から乱暴をうけた事件も起きたようである。さらに442の2世兵はシェルビー基地近くのハッティズバーグ市でも問題を起こしている。特に黒人差別に関する問題が多かったようだ。南部の町ハッティズバーグは人種差別の激しい町である。そこで便宜上ホワイトとされた2世たちは黒人用の水飲み場で水を飲む、黒人用のトイレに入る、果てはバスの後方、黒人用の席を陣取り運転手が運転を拒否すると、殴って外に放り出しバスを運転して基地に戻った。のちに公民権運動の火付け役となる黒人女性ローザ パークスさんはもしかしたら、このときの2世兵を真似たのだろうか? もちろん冗談である。ちなみに第100大隊の兵たちはターナーからきつく言われていたためこの町で問題を起こしていない。
シェルビー基地は約70,000名の兵が常駐し、うち4,000名が日系2世兵であった。2世兵は実地訓練で類を見ない高得点をだした。また基地ではスポーツ参加が義務付けられていたが、特に野球や水泳で2世兵が活躍した。フットボールは参加が許されず、ボクシングはレフェリーがアンフェアだった。
11月18日、陸軍省は442連隊の訓練結果が特に優れていたため、アメリカ国籍をもっていない日本人にも入隊許可を出す。終戦までに40名ほどの日本人が参加した。
参考資料
書籍
荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』1995平凡社
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』1983文藝春秋
渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』2003光人社
ジョーゼフD ハリントン 妹尾作太男訳『ヤンキー・サムライ』1981早川書房
山田太一『あめりか物語』1979日本放送出版協会
James B.Harris『ぼくは日本兵だった』1986旺文社
望月三起也『二世部隊物語1~7』2001集英社
ウェブ
『全米日系人博物館 ヒラサキ ナショナル リソースセンター』
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/nrc_jp.html
『Go For Broke National Education Center.』
http://www.goforbroke.org/default.asp
『The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史』
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
『二世部隊物語』
http://hawkeye.m78.com/442nd.htm
柏木 史楼『米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団—日系二世米兵の第二次世界大戦 The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦』
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/
『コロニア ニッケイ社会 ニュース』
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html
『第442連隊戦闘団 – Wikipedia』
なおレポートはもともと他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれません。ご容赦ください。