442連隊に関するレポート その18

掲載にいたる経緯

映画化したかった脚本がある。
第2次世界大戦で活躍した日系アメリカ人部隊の物語だ。
アメリカ人であるというアイデンティティをもちながら敵国人の息子として疎外された彼らと
アメリカに戻りたいのに事情があって許されない自分の人生が重なった。
脚本と参考資料は某脚本家の手に渡ったのち、まわりまわってあるプロデューサーまで行ったことまでは知っている。
たしか2010年代のことだったと思う。
しかしその先のことはわからない。
なにかあったとしてもこちらに声がかかることはなかった。
残念だがあきらめるしかない。

脚本を書くにあたり前段階として資料を読み漁ってレポートにまとめていた。
この資料作成作業は一時期筆者のライフワークとなっていた。
レポートによると最終編集が2009年4月22日になっている。
せっかくなのでこのページでそれを公表しようと思う。
少々重く硬いテーマでサイトのコンセプトと異なるが他に発表する場もないのでここに記していく。

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マサハル タケバ

軍曹。キムの右腕。冷静な対応から、キムにベストソルジャーと言われる。610高地では阿吽の呼吸でキムの肩越しからピストルを撃った。
キムが足を負傷し入院したときから小隊長となる。カッシーノに進軍する途中で頭を撃たれ即死。25歳だった。英語が読めない1世の母親にいつも日本語の手紙を書き送った優しい青年だった。

カート シュメル

 少尉。第100大隊E中隊所属。ドイツ、ベルリンで生まれる。幼児期に両親に連れられニューヨークに移住。学齢期になると、両親は教育のため彼をドイツに送る。そこで彼は同級生らとヒトラー青少年隊に入る。しかし、ヨーロッパの情勢が不安定になったためアメリカに戻る。
 対戦勃発後、アメリカ陸軍に入隊。成績優秀なため陸軍将校養成学校に送られ、卒業後マッコイ基地の第100大隊に配属される。ドイツ人の彼が日系2世部隊に配属されたのは偶然ではないだろう。日系2世兵にとっては尊敬する将校であった。
 イタリア、ヴェルツレノ川渡河中にドイツ軍に撃たれ死亡。第100大隊の、将校のなかで最初の戦死者となる。
 日系部隊にはこの他にイタリア系の将校もいた。

ジェームズ ブードリー

 少尉。マサチューセッツ州出身。フランス系カナダ人の家系に生まれる。彼は「日系兵と共にどこまでも戦う」と言い続けていた。ダルキストの非常識な命令でマサナオ オオタケ少尉が戦死したとき、シングルス大隊長、キム大尉と共に怒りをあらわにしている。テキサス大隊救出作戦で戦死。

カツミ コメタニ

 愛称はドック。南カリフォルニア大学で歯科医の資格を取得、ハワイで開業する。地元野球チーム、アサヒのオーナーの1人でもある。自身もスポーツマンで、ハワイ日系チームを率いて東京で開催されたスポーツ大会に参加したり、戦後、札幌オリンピックに招待されたりもしている。
オリジナル第100大隊においてモラールオフィサーという特別の任務をうけもつ。要するにカウンセラー兼世話役である。
 開戦当日、ハワイでは日系社会の安全を守るため直ちに2世リーダーらが緊急対策委員会を組織した。彼らはFBIや海軍情報部との連絡を密にした。コメタニはその委員会のメンバーだった。
 日系兵の大隊ができるという情報がはいると、コメタニはすぐに海軍情報部フィルダー大佐のもとに赴き、白人司令官と日系2世のパイプ役としての従軍を頼みこむ。当時36歳、3人の子供がいた。

ダニエル K イノウエ

中尉。最終は大尉。第2大隊E中隊所属、小隊長。ハワイ大学医学部予科在学中に兵役凍結解除をうけ志願。父は「この国は私たちを快く迎えてくれた。今こそアメリカに恩を返すときである。おまえは井上家にとって、母にとっても、私にとっても大切な長男だ。しかし、しなければいけないことはすべきだ。もし命を捧げるときがきたなら、躊躇無くそうしなさい。井上の家名に泥をぬるような真似だけはするな」と言った。
 シェルビー基地での訓練中、本土出身者とハワイ出身者の喧嘩が深刻化していた。白人将校たちは悩んだ末、イノウエを含むハワイ出身のリーダー格をトラックに乗せ、強制収容所に連れて行く。そこでイノウエは本土日系人の実情を知る。それ以来、両者の葛藤は沈静化していった。
 彼は負傷したとき、病院を脱走して前線に戻ったことがある。 
イノウエは幸運の1ドル銀貨を2枚もっており、1枚は曲がり、1枚は亀裂が入っていた。彼は常にこの2枚を胸ポケットに入れていた。フランス、ヴォージュ山中での戦いでは、この銀貨が彼の命を救っている。
ゴシックライン、ネピオ山の戦い前夜、イノウエは幸運の銀貨が紛失したことに気づく。
イタリア、ポー川流域での戦いで、イノウエは三方からの銃撃を受けながら、単身、敵の迫撃砲陣地5ヤードまでほふく前進で接近、下腹部に銃弾を受ける。なおも這いながら銃を撃ち続け、さらに前進。手榴弾を2つ投げ込み、迫撃砲陣地を破壊。右腕に銃弾が当たり、片腕となる。いまだ右腕に握られている手榴弾を左手で掴み、敵に投げる。さらに銃を左手で打ち続ける。一方相手も防戦し、右足を撃たれる。
戦後、イノウエは議会名誉勲章に推奨されていたにもかかわらず、陸軍省は拒否。次位の殊勲十字章を与えた。また、イノウエはサンフランシスコの理髪店で、制服を着て勲章をしていたにもかかわらず「ジャップの髪は刈らない。出て行け」と人種差別をうけている。
1959年、民主党ハワイ州選出 国会下院議員に初当選。続いて1963年、上院議員となる。
2000年6月21日、再審査の結果、クリントン大統領は彼に議会名誉勲章を授与した。

追記:2010年6月から2012年12月にお亡くなりになるまで上院仮議長を務める。これはいわゆる名誉職ではあるが、大統領継承第3位にあたり、大統領から数えると4番目に偉いということになる。
つまりこの期間、アメリカで4番目に偉いのはスミスさんでもジョンソンさんでもなくイノウエさんだったということになる。
また現在では元ホノルル空港はダニエル K イノウエ国際空港と名称を変えている。
ほかにもアメリカの駆逐艦にイノウエの名前が付けられている。

参考資料

書籍
荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』1995平凡社
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』1983文藝春秋
渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』2003光人社
ジョーゼフD ハリントン 妹尾作太男訳『ヤンキー・サムライ』1981早川書房
山田太一『あめりか物語』1979日本放送出版協会
James B.Harris『ぼくは日本兵だった』1986旺文社
望月三起也『二世部隊物語1~7』2001集英社

ウェブ
『全米日系人博物館 ヒラサキ ナショナル リソースセンター』 
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/nrc_jp.html
『Go For Broke National Education Center.』
http://www.goforbroke.org/default.asp

『The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史』
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
『二世部隊物語』
http://hawkeye.m78.com/442nd.htm
柏木 史楼『米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団—日系二世米兵の第二次世界大戦 The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦』
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/
『コロニア ニッケイ社会 ニュース』
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html
『第442連隊戦闘団 – Wikipedia』

なおレポートはもともと他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれません。ご容赦ください。

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