掲載にいたる経緯
映画化したかった脚本がある。
第2次世界大戦で活躍した日系アメリカ人部隊の物語だ。
アメリカ人であるというアイデンティティをもちながら敵国人の息子として疎外された彼らと
アメリカに戻りたいのに事情があって許されない自分の人生が重なった。
脚本と参考資料は某脚本家の手に渡ったのち、まわりまわってあるプロデューサーまで行ったことまでは知っている。
たしか2010年代のことだったと思う。
しかしその先のことはわからない。
なにかあったとしてもこちらに声がかかることはなかった。
残念だがあきらめるしかない。
脚本を書くにあたり前段階として資料を読み漁ってレポートにまとめていた。
この資料作成作業は一時期筆者のライフワークとなっていた。
レポートによると最終編集が2009年4月22日になっている。
せっかくなのでこのページでそれを公表しようと思う。
少々重く硬いテーマでサイトのコンセプトと異なるが他に発表する場もないのでここに記していく。
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スパーク マツナガ
中尉。D中隊第2小隊。イタリア戦線で伝令が踏んだ地雷に巻き込まれ負傷。そのとき地雷を踏んだ本人は奇跡的に無傷だった。アメリカ兵が”Bouncing Betty”と呼んだ飛跳式の地雷(SMi35型対人地雷)は踏むと数メートル飛び上がり兵士の上空で爆発し、傘状に破片が降り注ぐという非常に殺傷力の強い地雷であった。
マツナガは戦後、ハワイ州選出下院議員、上院議員をつとめる。
マツナガは新聞記者から取材をうけた折、日系部隊の強さの理由を「アメリカへの愛国心と、それを他のアメリカ人にわからせる使命感」と答えている。また「生き残った日系人がよりよい社会で生きていけるように、日系兵たちは戦場で死んでいった」と言った。
ジョー シゲオ タカタ
ハワイ出身。当時24歳。コメタニがオーナーの名前を連ねていた野球チームアサヒに所属する有名選手だった。コメタニが率いて東京に赴いた東亜競技大会にも参加し、日本の土を踏んでいる。
妻、フローレンスとの新婚生活が2ヶ月に満たないうちに出征。
マッコイ基地では毎週水曜日に野球の練習をした。コーチのラヴェルやコメタニはもちろん、大隊長ターナーまでも付いて、ウィスコンシン州で親善試合をしてまわる。
アフリカに上陸後、意外にも第100大隊は、第34師団の兵にすぐに受け入れられているが、これは北アフリカ駐屯の際の師団対抗野球大会での彼やオオミヤ1等兵の活躍によるところが大きい。第34師団はこの野球大会で優勝している。
1943年9月29日、モンテマラノの戦いで第100大隊はドイツ軍の攻撃をうける。タカタは単身敵と銃撃戦をし、敵に近づいていく。破片で頭をやられ倒れたタカタに小隊の1人が近づくと瀕死の彼は敵の潜んでいる位置を伝え息絶えた。
タカタは第100大隊で最初の戦死者となる。そして殊勲十字章(DSC)を最初に受けた2世兵でもある。
フローレンス フサエ タカタは勤めていた銀行が開くと同時に入ってきた従軍牧師から夫の訃報を聞く。彼女の頭のなかには29という数字がかけめぐった。彼女も夫も29日生まれなので彼らにとって29はラッキーナンバーだったのだ。その3日後、夫がシェラビーから送った小包が届く。
「ジョーは国のために死にました」とフローレンスは記者に語った。父親はこの未亡人を連れて役所を訪れ、香典を赤十字に寄付した。これ以降、日系兵の犠牲者が出るたびに遺族がこの光景を繰り返すようになる。
なお、タカタを悪く書く気にはなれないが、タカタが戦死したときの話はかなり脚色された可能性がある。様々な立場からプロパガンダに利用されたとも言え、彼はそれにもってこいの人物であった。
ケイチ タナカ
2等兵。タカタと同じ24歳。第100大隊2人目の戦死者である。タカタとほぼ同じときに戦死しているがタカタのように英雄にはされなかった。受けた勲章はパープルハート。タナカは死を予感していたのか、戦死の前夜旧友のもとに立ち寄って「死ぬような気がする。ハワイに戻ったら両親に会いに行ってくれ」と話している。次の朝には別の親しい友人に「さようなら、もう逢うことはないよ」と挨拶したり、同じ分隊の仲間にタバコ入れやライターを与えたりした。彼が撃たれたのはその30分後だった。
エイキ コバシガワ
曹長。B中隊第1小隊長。ハワイ出身。ローマに近い国道7号線付近の要塞を攻撃。この戦闘で2000年6月に議会名誉勲章を受けている。ニックネームはレフティ。
バーニー ハジロ
第3大隊I中隊、上等兵。テキサス大隊救出作戦で単身ライフル銃を撃ちながら前進。機関銃座2ヶ所破壊、彼を狙っていた狙撃兵を含む数人を射殺。彼に続いて部隊は目標地点に到達。この戦いにより2006年6月、彼は議会名誉勲章を受章している。
サダオ ムネモリ
カリフォルニア州、グレンデールに生まれる。愛称はスパッド。ロサンゼルス北部のリンカーン高校に入学。1942年2月には陸軍に志願し入隊していた。しかし3月には兵役凍結となる。その後、ムネモリは陸軍情報部語学学校に配属される。在学中、442連隊の編成を知り転属を希望、唯一認められる。
春になると家族はマンザナー収容所に送られた。ムネモリは戦地に発つ前に収容所を訪れる。ムネモリの母はその時、息子に次のような話を言って聞かせた。「私は日本人。でも、あなたはアメリカ市民。日本人として恥ずかしくないよう、あなたの祖国アメリカのために戦いなさい」ちなみにムネモリの両親は広島県出身である。
ムネモリは第100大隊の第2補充兵としてアンツィオより合流。
1945年、ゴシックラインにて分隊長が倒れ、ムネモリが分隊を率いた。4月5日、部下を守って戦死。ムネモリが受賞した名誉勲章には、次のように記されている。「彼はセラヴェッツァで勇敢に戦った。敵の強固な守備と銃撃、部隊長の負傷によりセラヴェッツァに留まらざるをえなかったとき、彼は1人で2丁の機関銃と手榴弾をもって正面の敵を果敢に打ち倒した。敵砲兵の掃射と爆撃から後退したとき、彼は不発の手榴弾が部下のいる塹壕に転がってゆくのを見た。すぐさま駆けた彼は手榴弾に覆いかぶさり、爆発を一身に受けとめた。彼の迅速で英雄的な行動は部下を救い、部隊の勝利に大いに貢献した」
ロサンゼルスのエバーグリーン墓地に立つ殉国碑の頂上にはサダオ ムネモリの石像が置かれている。また、ピエトラサンタでも彼のブロンズ像が建てられている。
アキラ シシド
一方、サダオ ムネモリに助けられた兵士も苦しんでいた。アキラ シシドはムネモリに助けられた2名の兵のうちの1人で、次の証言を残している。「ムネモリが手榴弾の上に上体をかぶせたとき、肩と頭で手榴弾を抱え込むようにした。手榴弾が炸裂したとき、破片が飛散しないようにするためだ」
シシドは戦後10年間安眠できず、精神科にかかっていた。彼が再び眠れたのは、ムネモリの姉、横山八重子に会ってからである。八重子はシシドに「あれがスパッドのやりかたですよ」言って聞かせた。
コンラッド ツカヤマ
ハワイ出身。D中隊所属。開戦前の11月4日に徴兵される。このとき、ポケットいっぱいの餞別と激励をうけてスコフィールドに向かった。ところが偏平足だったため身体検査で不合格となる。このままでは家の恥だからと必死で再検査を頼み込んで、なんとか1等兵となった。
12月7日、彼は週末パスをもらい家族のところに帰っている。ラジオで真珠湾攻撃を知り、ツカヤマは家族と共に外に飛び出す。そのときツカヤマはゼロ戦のパイロットの顔を見る。ゼロ戦のパイロットの表情は落ち着いており、冷静で自身ありげに見えたという。
ゼロ戦が機銃掃射のため急降下するのが見え、丘の上に煙があがった。煙の立ち昇る場所にはカネオヘ海軍航空隊の基地があった。取り乱したツカヤマは頭上を1機また1機と通り過ぎるゼロ戦に向かって悪態をついた。
スコフィールドに戻ると混乱の渦になっていた。彼と同じように訓練も受けたことがないような兵に弾薬が支給された。誰かが言った。「曹長殿、弾はどうやって詰めるのでありますか?」次の瞬間 爆発音が響いた。その後、銃に弾を込めることを禁ずるという命令がだされる。それから数週間のち彼は298部隊に配属される。
ツカヤマは本土に上陸した際、多くのハワイ2世兵と同じように、本土の白人が必ずしも優位な立場にないことに驚いている。それだけハワイの白人は絶対だったのだ。
彼はヨーロッパ戦線で、攻撃小隊の位置を確かめるよう探し歩いているうちに、まったく見知らぬところに迷い込んでしまい、イタリア人農家に助けられたことがある。なお第100大隊で最初に負傷したのは彼であるという資料があるが『ハワイ日系米兵』にはそのことが触れられていない。
◆ ジミー ハマサキ
『442』に登場。ハワイ出身。サンフランシスコの大学在学中に開戦となり、ローアーの強制収容所に入れられる。その後、第100大隊に参加。実在の人物だとは思うが……。創作部分に登場するジミイ タムラのモデル。どこまで創作か悩むところではあるが、カッシーノの戦いにおいて、イタリア系の将校とグライダーで敵陣に降り、わざと敵軍に捕まると、嘘の計画を白状し、ドイツ軍の大部隊を移動させることに成功している。そしてヘリで救出されている。どこまで創作かは判断しかねるが……。
ジェシー ヒラタ
1等兵。『ハワイ日系米兵』の手記には、テキサス出身の白人兵とよく喧嘩していたことを告白している。また、南部での黒人差別にも触れている。
ワシントンからの視察が来たとき、彼の小隊が悪戯をして、英語で”One Two Three Four”と歩調をとる代わり、日本語で「一、二、三、四」と歩調をとり、軍曹を慌てさせたらしい。
バーブ サトウ
1等兵。『ハワイ日系米兵』の手記において、戦場で18歳くらいのドイツ兵が殴られた際、女性の写真が落ちるのを見る。味方の連中が泥の中、足でその写真を踏みつけたが、サトウはそれを制止して、写真を拾って拭いてやり、ドイツ兵のポケットに入れてやった。彼はイタリア兵とはほとんど戦わなかったがイタリア人のギャングは強かったと証言している。
ジョン ツカノ
1等兵。ヴォージュ山中の戦いで負傷。本隊から離れ、一足先に帰国する。
ハワイに帰る途中、ロサンゼルスのグレイハウンド バス停留所で傲慢なMPに逮捕される。翌日 彼は別な刑務所に移され、外との連絡も許されないまま数日を過ごす。それから彼はトラックに乗せられて、基地内の食堂に連れて行かれる。そこで囚人服のまま掃除をさせられる。基地にいた兵士や民間人は好奇な目で彼を見た。
その夜も彼は士官クラブで溜まった皿を洗っていた。キッチンの向こうから笑い声とクリスマスソングが聞こえてくる。ツカノは怒りがこみあげてくるのを押えきれずにいた。これがヨーロッパ戦線で戦った兵士にたいする国家の扱いなのか。私が3年間誇りをもって従軍した陸軍が一言の弁解も裁判もなく私を刑務所に入れたのだ。私はヨーロッパの敵よりも、もっと手強い敵に攻撃されている。ヨーロッパでは敵が攻撃してくれば我々は対抗することができた。しかし、ここでは刃向かう自由さえも無い。法律さえも彼らの味方なのだ。私の名前、誇り、尊厳のすべてが傷つけられた。自由の国アメリカでこんな汚い話があっていいのか! 彼は脱出の計画を練る。彼を見張っている兵士は隙だらけで、ヨーロッパで戦った彼にとって敵ではなかった。
そのとき、1人の陸軍大尉がキッチンに入ってきた。大尉は彼が顔をあげるまで待っていた。そして彼に微笑みかけた。「君はヨーロッパ戦線で戦った日系兵ではないか?」「はい」「私が知る限り、君たちは決してトラブルを起こさないはずだが。いったい、どうしてここへ来たのかね」先程までツカノの心を支配していた復讐心は消えていた。事情を聞いた大尉はすぐに刑務所から出られるよう処置をした。翌日彼は所長の嫌味を浴びたあと刑務所をあとにする。
ヒサエ シマツ
少尉、31歳。カッシーノの戦いで捕虜となる。第100大隊で初めての捕虜。偵察中に捕まり、すぐにベルリンに送られる。そこでドイツ軍と共に日本大使館の職員にも尋問される。この頃からドイツ諜報宣伝放送で悪名高いアクシス サリー(枢軸サリー)が「リトル ブラウン ソルジャー、戦う相手をお間違えじゃないの」と呼び掛けるようになったと言われる。
サム サカモト
中尉、30歳。第100大隊。フランス山中で捕虜となる。上記のシマツと共に第100大隊、442連隊としてはめずらしいと言える捕虜。ドイツ軍は負傷したサカモトを直ちに救急車で送っている。手術後、フランクフルトの大きな病院に移され適切な手当てを受ける。その間、何度も尋問をうけた。このときには既にドイツ軍も日系部隊に詳しかった。彼がうんざりしたのは「なぜアメリカのために戦うのか」という質問だった。捕虜収容所でシマツと再開する。収容所の生活はかなり厳しく1週間分として与えられる10センチほどのパンを常に胸に抱えていたという。ちなみにサカモトの弟は明治大学を卒業したあと日本兵としてフィリピンで捕虜になり、末弟はMISとして活動していた。
ケネス カネコ
2等兵、ハワイ出身。広島出身の両親は幼い頃に他界。プロテスタント系の施設オクムラドミトリーにて育つ。マッキンレー高校を卒業後、港湾施設で働くが1ヶ月後に徴兵される。彼は地元野球の選手でもあった。真珠湾攻撃のときにはコーチである警察官の運転するパトカーで練習場に向かっていた。路上で飛行機の日の丸を見上げたとき、カネコは思わず手で胸を隠した。ユニフォームにはローマ字ではっきりと彼のチーム名『NIPPON』が刺繍されていたのである。
マサオ コガ
作曲家である古賀政男の又従兄弟で同姓同名。5歳のとき日本をおとずれて叔父の家で古賀政男と一緒に遊んだ記憶があるらしい。当時、2世兵たちが日本の歌をうたうことは上官から堅く禁じられていたが、彼らは気にせず古賀政男の歌をうたったりしたらしい。
リチャード クマシロ
アメリカ軍が2世から志願兵を募るときに、ポスターのモデルになった。クマシロ自身は戦前の徴兵であり、ナショナルガードではなくクォーターマスター(補給部隊)に在籍していたため、第100大隊には加わらなかった。写真もある日 兵営にやってきた通信隊のカメラマンに指図されてやったまでのことだった。のちにクマシロは自分の顔のポスターが募集する第442連隊に志戦した。終戦後はカリフォルニア州で歯科医となった。
アール フィンチ
民間人。シェルビー基地の兵士たちを招待し、ミシシッピー州ハティズバーグにある彼の牧場でご馳走していた。442連隊が来ると白人たちと同じように招待し、2世兵たちと友情を育んだ。ニューオリンズのホテルの最上階でパーティーを開いたり、2世兵が負傷して帰国すると、どんなに遠くても見舞いに出かけた。強制収容所が閉鎖されると2世兵の家族のために援助もした。1946年にはハワイに招待され熱烈に歓迎される。それから数年後、彼はホノルルに永住を決める。
メアリー ナカハラ
後述するシェラビーUSOの中でも特に熱心だった女性。2世兵に慰問の手紙を送るクルセイダーという運動を最初に始める。のちにハティズバーグのアロハUSOに移る。色白で整った顔立ちだが冷たさはなく誰に対しても笑顔を絶やさなかった。また1度聞いただけで人の名前を覚えた。
当時としては珍しくロサンゼルスの裕福な家庭に生まれる。真珠湾攻撃直後父はFBIに逮捕されるが、FBIは開戦よりもずっと前から主要な日本人をスパイしていたらしく、父が接待している現場の盗み撮り写真を突きつけたという。
彼女は特にハワイ2世の人気を一身に集めたが、そんな彼女が恋をしたのは垢抜けたニューヨーク出身のビル コウチヤマだった。
日系人だけではなく黒人問題にも取り組んできたメアリーは、戦後ニューヨーク ハーレムの一角で暮らした。
ビル コウチヤマ
ニューヨーク出身。442連隊では珍しい東海岸出身の2世兵。母親が死んでからキリスト系施設で育つ。そのため日本人という意識がまったく無かったが、その割には毎週日曜日に父親に連れられて食べる日本食レストランのメニューを好んだ。カリフォルニア州の大学に入るため父からもらった金をもって西海岸に引越すが直後に開戦となり、トパーズ収容所に送られる。そこで442連隊に志願した。洗練されたダンスでシェラビーUSOの日本人女性から憧れの的となる。そんな彼を射止めたのはメアリーだった。メアリーとは少ない休暇に会い、戦地でも手紙を互いに送りあった。「我らのメアリー」と呼ばれたメアリー ナカハラはやがて「ビルのメアリー」と呼ばれるようになる。
ヘンリー ナカダ
I中隊第1小隊、2等兵。カリフォルニア州出身。24歳。戦前、アラスカの湾口で働いていて徴兵される。開戦後はMIS所属。サダオ ムネモリはMISの学校から唯一442連隊に転属が許された例だが、ナカダはMISとして1度ニューカレドニアで活動したあと、442連隊に入ることを許された唯一の例である。
彼は太平洋戦線とヨーロッパ戦線の両方を戦った。
ちなみにナカダ兄弟は、彼も含めて7人がアメリカ軍に在籍した。これは日系で1番であり、アメリカ人としても同じく7人兄弟を兵として出した白人家庭が1つあるだけで1番である。
ウォルター カジワラ
第1時補充兵として第100大隊に参加。ローマに進駐したあと、負傷してイタリア国内に入院する。その後、ワシントン、ホノルルの病院と移り、ヨーロッパ戦線復帰を待っていた。ところが終戦が近づき、太平洋戦線の語学兵が大量に必要となったため、彼は強制的に沖縄に送られる。ちなみにウォルターは2世ではなく、3世である。
トマス ヒガ
1等兵、ハワイ出身。早稲田大学予科、電気専門学校卒業。両親は沖縄出身と思われる。カッシーノの戦いで2回負傷する。ハワイに帰国後、アメリカ軍から語学兵として支援要請され沖縄に移動する。
ヒガは日本人に投降を勧めるため洞窟に入っていったとき、年配の婦人から「注意しなさい。外にはアメリカ兵がいますからね」と言われた。
また彼は少年時代、沖縄に在住していたが、そのときの教師と偶然出会い、保護している。彼以外にも沖縄に進行した語学兵のうち、少なくない人数が親類を見つけている。
参考資料
書籍
荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』1995平凡社
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』1983文藝春秋
渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』2003光人社
ジョーゼフD ハリントン 妹尾作太男訳『ヤンキー・サムライ』1981早川書房
山田太一『あめりか物語』1979日本放送出版協会
James B.Harris『ぼくは日本兵だった』1986旺文社
望月三起也『二世部隊物語1~7』2001集英社
ウェブ
『全米日系人博物館 ヒラサキ ナショナル リソースセンター』
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/nrc_jp.html
『Go For Broke National Education Center.』
http://www.goforbroke.org/default.asp
『The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史』
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
『二世部隊物語』
http://hawkeye.m78.com/442nd.htm
柏木 史楼『米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団—日系二世米兵の第二次世界大戦 The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦』
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/
『コロニア ニッケイ社会 ニュース』
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html
『第442連隊戦闘団 – Wikipedia』
なおレポートはもともと他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれません。ご容赦ください。