掲載にいたる経緯
映画化したかった脚本がある。
第2次世界大戦で活躍した日系アメリカ人部隊の物語だ。
アメリカ人であるというアイデンティティをもちながら敵国人の息子として疎外された彼らと
アメリカに戻りたいのに事情があって許されない自分の人生が重なった。
脚本と参考資料は某脚本家の手に渡ったのち、まわりまわってあるプロデューサーまで行ったことまでは知っている。
たしか2010年代のことだったと思う。
しかしその先のことはわからない。
なにかあったとしてもこちらに声がかかることはなかった。
残念だがあきらめるしかない。
脚本を書くにあたり前段階として資料を読み漁ってレポートにまとめていた。
この資料作成作業は一時期筆者のライフワークとなっていた。
レポートによると最終編集が2009年4月22日になっている。
せっかくなのでこのページでそれを公表しようと思う。
少々重く硬いテーマでサイトのコンセプトと異なるが他に発表する場もないのでここに記していく。
関連記事
442連隊に関するレポート その1
442連隊に関するレポート その2
442連隊に関するレポート その3
442連隊に関するレポート その4
442連隊に関するレポート その5
442連隊に関するレポート その6
442連隊に関するレポート その7
442連隊に関するレポート その8
442連隊に関するレポート その9
442連隊に関するレポート その10
442連隊に関するレポート その11
442連隊に関するレポート その12
442連隊に関するレポート その13
442連隊に関するレポート その14
442連隊に関するレポート その15
442連隊に関するレポート その16
442連隊に関するレポート その17
442連隊に関するレポート その18
442連隊に関するレポート その19
その他の日系人部隊
陸軍情報部語学兵 MIS
ヨーロッパ戦線において2世兵が賞賛を浴びる一方で、太平洋で活躍した約5,000名の日系アメリカ兵は30年間 沈黙を通した。公にされなかったのは主に機密保全と、マッカーサー解任の理由による。
彼らの任務は翻訳、通訳、捕虜尋問、兵士および民間人への投降呼び掛けなど多義にわたり、場合によってはパラシュートで降下したり、歩兵として前線に立ったりすることもあった。また、開戦前からスパイとして活動していた日系兵も存在する。
太平洋戦線の勝利は、彼らの翻訳した情報によるところが大きい。マッカーサー元帥は「これほど敵の情報を入手して戦うのは、軍事史上なかったであろう」と言った。マッカーサーの補佐役、情報参謀次長ウィロビー少将は「彼らの活躍により戦争が2年縮まり1,000,000人の命が救われた」と語った。また「語学兵1人の力は1師団に値する」とまで言われた。
1941年11月1日、パールハーバーの5週間前、アメリカ陸軍情報部は、第4軍のもとサンフランシスコのプレシディオに秘密語学学校MISLS (Military Intelligence Service Language School)を開設。MIS司令官ラスムセン大佐、ジョン アイソ校長のもと4名の2世インストラクターと60名の生徒(うち58名は日系)が集められた。のちに戦線からの語学兵を求める声が高まるなか、442連隊からも兵士をつれてくることになる。また、第100大隊からも96名が移ってきている。
1942年5月、アメリカ陸軍情報部語学学校の最初の卒業生たちがアリューシャン列島と南太平洋に送られる。これより、多くの語学兵が戦場で敵のみならず味方からの攻撃にも注意を払わなければいけなくなる。実際、1人以上の警護が付いていたにも関わらず、語学兵が友軍の手により捕虜になりかけたエピソードが多数残されている。
語学兵は10人前後のチームをつくり、ナップザック、携帯用巻き寝具、ナイフ、銃剣、小銃、水筒、手榴弾、弾薬帯という一般的な荷物の他、3冊のポケット辞書を携帯し、さらに15冊の辞書、タイプライター、紙、定規、クリップ、筆記用具、ホッチキス、拡大鏡、その他の文房具を戦場に持ち込んでいた。
1943年4月18日、山本五十六元帥がラバウルからブーゲンビルに視察に出かける情報を、アメリカ軍がキャッチ、直ちに翻訳された。ブーゲンビル上空の機をアメリカ軍P38戦闘機が撃墜した。
5月25日、軍事地域に指定されたカリフォルニア、オレゴン、ワシントンから、すべての日系アメリカ人を排除する立ち退き命令が下る。これにより、MISもサンフランシスコからミネソタ州、サベージ基地へと移される。「サベージ」には野蛮という意味があるため、兵士たちは自嘲ぎみに野蛮学校と呼んだらしい。5月28日には、日系2世137名、白人23名、中国系1名が卒業した。その後、語学学校はフォートスネリングに移される。
1944年2月、14名が、北ビルマの敵軍後方で作戦行動をとる。ビルマ(ニューギニア?)では日本軍を偵察した語学兵が、日本人将校の口真似で「突撃!」と言ってアメリカ軍の懐に誘い込んだことがある。
4月1日、日本軍の飛行艇がセブ島海岸に不時着、フィリピンゲリラが古賀提督本人と思われる人物を捕らえた。押収したZ作戦計画書がただちにATIS(マッカーサー指揮下の連合軍翻訳通訳課)の語学兵の手により翻訳される。このZ作戦計画はのちに、あ号作戦などに形を変え実際にサンベルナルディノ海峡やレイテ海戦で実行されたが、アメリカ軍は語学兵の活躍により日本軍の動きを把握しており、日本軍の連合艦隊に壊滅的な打撃をあたえた。
1944年7月、アメリカ陸軍情報部の2世兵士5名が、デキシー派遣団の一員として中国共産党の戦時司令部、延安に送られ、軍事情報収集にたずさわる。
日にちがはっきりしないが、コウイチ クボ軍曹は1度 軍が素通りした書類の山から日本軍の武器の種類、数量、保管所、武器製造所の一覧を発見する。ただちにチームが最優先で翻訳した。これにより、のちの作戦、本土爆撃はもとより、終戦後の武器処理にいたるまでアメリカ軍はスムーズに事を行うことができた。
1945年2月19日、50名以上の陸軍情報部2世兵士が、アメリカ海軍とともに硫黄島に上陸。なお、ネイティブアメリカンのナホバ族の兵士もこのとき通信兵として参加している。
4月1日、沖縄上陸。アメリカ陸軍情報部の2世兵たちが、防衛プランや部隊の位置を示した文書、砲兵隊の位置を示した地図などを翻訳し、沖縄戦短縮に貢献する。なお、日系2世兵は沖縄上陸に先立って、沖縄出身の両親をもつ、沖縄の言葉がわかる特別チームをつくっていた。
こんな話が残っている。トミー ハマダが銃の手入れをしていた時、銃が暴発して近くにいたトシミ ヤマダの尻にかすり傷を負わせた。トシミは軍医にパープルハートを授与するよう要求した。軍医は言った「無理だね。勲章は日本兵との戦闘でなけりゃだめだよ」トシミはトミー ハマダを指差して言った。「では軍医殿はあの男をなんと呼びますか」「私が言っているのは敵との交戦」「ええ、確かにいま奴は私の敵ですよ」1週間後、トシミは日本兵に撃たれて本当に勲章をもらう。
トシミは家族と1941年に日本に行き、彼だけがアメリカに戻ってきた。トシミは捕虜尋問の際、沖縄に一時滞在していた弟を知るという日本兵と出会う。捕虜の話から弟の配属先がわかった。それと同時に彼は弟がすでに死亡していることに気づく。配属先の船が撃沈されていることを彼は知っていたのだ。
1945年9月2日、日本が降伏文書に署名する際の通訳として、日系2世兵がアメリカ戦艦ミズーリに乗船。これをもって第2次世界大戦が終結する。戦死17名、十字勲章3個、勲功賞5個、銀星勲章5個。
終戦後、語学兵のうちの一部はGHQに加わり日本に残る。
語学兵は太平洋戦線だけではなく、必要とされれば世界中どこへでも飛んだ。
彼らのなかにはオーストラリア軍と共に行動した者もいた。イギリス軍に同行した者もいた。またベルリン侵攻を控えヨーロッパ入りした語学兵もいた。カナダで日本語を教えた者もいた。フィリピンでは日本軍司令官の目を盗んでスパイをしていた者さえいた。CIAの前身であるOSSに配属され、活動していた者もいた。
ニューヨークのフルトンマーケット(築地市場のような場所)の建物2階で秘密裏に活動した者もいた。この2名の語学兵は、三井物産と小倉石油のニューヨーク支店から押収した書類を、本人たちもはっきりと教えてもらえない、ある目的のために翻訳し続けた。
ワシントンDCにあるヴィントヒルファーム基地では特別チームが編成され、駐ドイツ日本大使が送る日本宛ての電報を傍受していた。つまり、ナチスドイツと日本軍の会談がワシントンに筒抜けだったのである。
ペンタゴンにも4名の日系2世が奇異な眼差しを浴びながら勤務していた。
歯科医だった語学兵の浦崎正一は進駐軍に参加し、東条英機がピストル自殺を図ったとき、マイケル パーカー司令官の命令で東条英機を守った。東条は浦崎と別れるとき、何も無いからと軍服を渡した。
語学兵の1人、ジョン タニカワは当時41歳で、実は第1次世界大戦にも年齢を偽って参加していた。そのため語学兵に志願する以前からパープルハート勲章とフランス戦攻十字章をもっていた。
ハリー アクネと弟のジロウは語学兵として活動し、その下のサブロウとシロウは日本に住んでいたので日本軍に入隊した。同じく、ドン オカと弟のイサオ、マサオは語学兵に、兄のタケオとケイジは日本軍に入隊していた。
まれだとは思うが、兄弟や従兄弟と戦場ではち合わせしたという話がある。少なくともニアミスしている話は数多くある。
1980年5月9日、カリフォルニア州モントレーのプレシディオにあるアメリカ防衛言語研究所の3つの建物に、第2次世界大戦で戦死したアメリカ陸軍情報部の日系2世兵士の名前が冠せられた。
◆コウイチ クボ
早稲田大学出身。いわゆる帰米。サイパンで日本軍の投降を求めたとき、「君は日本人でありながら、なぜアメリカ側についているのだ」と聞かれ、平重盛の言葉「孝ならんと欲すれば忠ならざる。忠ならんと欲すれば孝ならず」と言った。日本軍の将校は彼の言葉を聞いて納得し、投降した。
◆ ジョージ アリヨシ
語学兵として進駐軍に参加。東京で従軍したときの話を『ハワイ日系米兵』で語っている。以下に引用する。
私がいちばん感心し、印象的だったのは東京の郵船ビルにいたときに、最初に会った靴磨きの七歳の男の子と話したときのことだ。彼はとても困っていて、お腹が空いていた。ハワイでも、靴磨きの子は貧しい家の子だったから、それを考えて、七つの子供が家庭を助けるために一生懸命働いているということがわかったから、郵船ビルで食事をしたとき、パンにバターとジャムを付けてナプキンに包みポケットに入れて、彼にあげた。すると、彼はそれを箱に入れてしまった。「どうして? お腹が空いているのに」「空いてるよ。でも、これはマリコに持って帰るから。マリコと一緒に食べるんだ」と言う。「マリコって、誰?」「三つの妹です」
私はとても感心した。普通だったら、七つの子どもなら、たとえお腹が空いていなくても、欲しいものはすぐに食べてしまうだろう。それを、彼はものすごくお腹が空いていたのに、妹のことを考えたのだ。それから私は、いつもPXに行ってハンバーガーを買いポケットに入れて、彼にあげた。
陸軍婦人部隊
1943年10月、日系アメリカ人女性が、陸軍婦人部隊への参加を許可される。第2次世界大戦中、および戦後を通し300名以上の日系アメリカ人女性が陸軍婦人部隊に参加した。
第1399工兵大隊
1944年4月、第1399工兵大隊が編成され、ハワイ諸島での非戦闘工事と保全管理プロジェクトに従事した。1945年10月29日には「優れた行動と記録的な業績、そしてひときわ優れた任務への献身」により、勲功賞銘板を受賞する。
開戦前に徴兵されていた兵
開戦前に徴兵されていた本土の2世兵は、ごく一部が第442連隊の下士官としてシェラビーに移ったが、大半にあたる825名は各基地でトイレ掃除やごみ集めといった雑用をしていた。彼らは1944年1月1日付の徴兵制復活とともにマックレランに集められ歩兵としての再訓練に入る。
訓練中、1人の帰米が上官に「前線に出た後、両親の安全は保証するのか」と質問したことをきっかけに103名がライフルを捨てて座り込む、いわゆる「ジャップ騒動」が起きる。
訓練後、彼らは第100大隊、第442連隊の補充兵としてヨーロッパに送られた。
ベン クロキ ― たった1人のアメリカンヒーロー
軍曹、当時25歳。彼は第100大隊でも442連隊でもMISでも1399工兵大隊でもない。しかし、彼はアメリカで最も有名な日系兵の1人である。
彼はネブラスカ州の貧しい農家の3世として生まれる。開戦の2日後、父の「アメリカはおまえの国だろうが」の言葉により弟フレッドと共に志願。最初に行った志願兵徴募事務所ではジャップを理由に断られる。2ヶ月後、別の町の事務所で再び志願、入隊を許可される。基礎訓練を行ったテキサス州では「どうしてジャップが紛れ込んでいるんだ」と白人兵にいびられた。兄弟は毎夜、枕に顔を押し付けて忍び泣いた。のちに「私たち2人はアメリカ陸軍で最も孤独な兵でした」と語っている。
訓練後、弟のフレッドは工兵学校へ、クロキは通報や報告文書を記述するための特殊学校へと回される。その後、陸軍航空隊へ配属されるが炊事ばかりをやらされていた。航空隊のモットーは「飛び続けろ」だったがクロキに期待されたのは「ポテトの皮を剥き続けろ」だった。
最終訓練のため部隊がフロリダに行くことになったとき、クロキだけは日系を理由に他部隊への配属を言い渡される。しかしクロキは粘って居残った。イギリスへ向かう指令が出たときも再びクロキは除外されるが必死に副中隊長に連れて行って欲しいと願う、涙を流して懇願するクロキに心を打たれた副中隊長は本部に掛け合いクロキのイギリス行きを許可する。
1942年8月、第100大隊がマッコイに落ち着いた頃、クロキはクイーンエリザベス号でイギリスへと向かっていた。到着すると同時に彼は飛行砲手に志願する。ついに彼はB-24超長距離銃爆撃機の砲手となる。
第100大隊に先駆けること半年以上前、オランに到着。北アフリカ戦で後方銃座を受け持つ。仲間の搭乗員からは「ハラキリ」などと呼ばれて好かれていた。サレルノにも第100大隊より一歩早く上空から参戦。
ルーマニアのプロイエスティ精油所攻撃には前方銃座に着く。この戦闘で54機が打ち落とされ、同じ中隊で戻ってきたのは彼の乗る機を含めてたったの2機だった。仲間はこの戦闘を最後に故国に戻るが、クロキは「クレージィ」と言われながら自ら部隊に残り出撃を続ける。
勲章を胸にアメリカに帰ったクロキは、タイム誌などに紹介され一躍注目を集める。徴兵制が復活した折、陸軍省はよい宣伝になると各地の強制収容所に彼を送り込んだ。442連隊の志願が45名と最も徴兵に否定的だったハートマウンテン収容所でもクロキは熱狂的に歓迎され2,000以上ものサインを求められる。クロキは2世たちに呼び掛けた。「自分達の国アメリカのために戦おう」彼の呼び掛けに呼応して入隊を決めた2世もいた。
強制収容所ではヒーローのクロキだったが、相変わらずデンバーではタクシーの相乗りを拒絶され、新聞では「ジャップ、サンフランシスコで演説」と見出しが出る始末だった。クロキは自分の戦いがまだ終わっていないことを思い知らされる。
クロキは粘り強く軍に掛け合い、ついにB-29の後方銃座の砲手となった。
彼は東京、横浜、名古屋、大阪、神戸を空から参戦した唯一の日系兵でもある。彼の乗るB-29に付けられた愛称は「オーナラブル サッド サケ」貴-悲しい酒である。
第2次世界大戦中、何らかの形でアメリカ軍に入隊した日系人は33,330名に上るといわれる。そのうち40名ほどはアメリカ国籍を持たない日本人であった。多彩な民族が混在するアメリカにおいて、第2次世界大戦中 最も参加率の多かった民族は実は日本民族である。
日本軍に従軍した2世
一方、2重国籍であるが故に日本軍に従軍した2世もいた。当時、多くの移民1世は、子供が適当な年齢に達すると日本に留学させた。また、当時のアメリカの状況を悲観して日本に帰る移民1世も多くいた。彼らは、成人した子供だけを残し、未成年の子供を連れて帰るケースが多かったと推測される。そのため日本軍に従軍した2世も決して少なくなかった。後述するJ B ハリスの『ぼくは日本兵だった』では隼898部隊というMISと同じ日本の諜報部隊が登場しているが、この部隊は日系2世たちで構成されていた。また、特攻隊員として出撃した者すらいた。
カリフォルニア産まれのアイバ戸栗ダキノは、アメリカ兵に向けたプロパガンタ放送の女性アナウンサー、通称東京ローズの1人であり唯一本人であることを明かしている。彼女は親戚の見舞いのため日本に来たタイミングで開戦となりアメリカに帰れなくなるが最後まで日本に帰化しなかった。アメリカ兵の戦意を喪失させるための宣伝放送であるにもかかわらず東京ローズの甘美な声はたくさんのアメリカ兵から支持を得ていた。
戦後、こうした2世はアメリカから市民権を剥奪された。ハワイ出身のジムヨシダは市民権回復のために再び朝鮮戦争に従軍した。
日本軍に従軍した外国人
ジェームス B ハリスはイギリス人ジャーナリストの父と日本人の母の間に産まれた。容姿、アイデンティティは共に欧米人である。日本産まれであるため、日本語会話はほぼ問題はないが、読み書きはできなかった。関東大震災直後に父の転勤により7歳で渡米。アメリカ西海岸の生活に溶け込んでいく。5年後、父の転勤により再び横浜へ。そこでも西欧式の教育を受ける。16歳のとき父の急死にともなって英字新聞のジャーナリストとして就職。同時に平柳秀夫という名前で便宜上帰化する。
真珠湾攻撃の日、開戦の原稿を作っているところを憲兵に敵国人として逮捕される。自分は日本人であるという主張もむなしく2週間の留置所生活のあと山下公園にあった敵国人収容所に入る。ちなみに収容所での生活は外に出られないという以外は開放的だった。それは視察に来たスイスの赤十字が拍子抜けするほどであった。
やがて交換船により収容者が本国に帰り始めると、ハリスも日本国籍でありながら母を置いて未知の国イギリスに送られることになる。あきらめて荷物をまとめたところで釈放、即徴兵される。西欧式の教育を受け、読み書きもろくにできなかったハリスはその日から日本帝国軍式の訓練を受け中国北部に移動する。
軍隊生活も慣れたある日、ハリスはゴーストタウンと化した部落で偶然アメリカ人が暮らしていたらしい教会を見つける。英語に飢えていたハリスはボロボロの雑誌を4冊見つけ隠し持つ。消灯後、隠れて読んだ『リーダーズ ダイジェスト』で彼の目を引いたのは、アメリカ軍に投じた2世兵がイタリア戦線で大活躍しているというニュースだった。はるか遠い中国で、ハリスは同じ境遇の2世兵に強い興味をもつ。
MIS語学兵はしばしばアメリカ兵に捕虜にされたが、ハリスも一度スパイと間違われて営倉に入れられている。また、東京での知人であるアメリカ人とは、互いに敵として中国のある部落で最接近している。
ハリスは野戦病院入院中、偶然日本人とドイツ人のハーフ、デービット カトウと知り合い、その後、隼898部隊に招かれて無電傍受に従事する。そしてそこで終戦を迎えた。隼898部隊は諜報部隊であったため敗戦と同時に証拠隠滅して存在しなかった部隊となる。ハリスもまた古巣の部隊に戻った。ちなみに隼898部隊はカトウとハリー以外はすべて日系2世のアメリカ人、つまり第100大隊、第442連隊、MISの兵士たちと同じである。
ハリスは復員までの期間、部隊を管理していた中国の国民政府軍の陳(チン)少将の娘たちに家庭教師として英語を教え、それをきっかけに部隊でも英語を教えるようになる。
のち1958年よりラジオ講座『百万人の英語』の講師を長年務めた。
参考資料
書籍
荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』1995平凡社
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』1983文藝春秋
渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』2003光人社
ジョーゼフD ハリントン 妹尾作太男訳『ヤンキー・サムライ』1981早川書房
山田太一『あめりか物語』1979日本放送出版協会
James B.Harris『ぼくは日本兵だった』1986旺文社
望月三起也『二世部隊物語1~7』2001集英社
ウェブ
『全米日系人博物館 ヒラサキ ナショナル リソースセンター』
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/nrc_jp.html
『Go For Broke National Education Center.』
http://www.goforbroke.org/default.asp
『The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史』
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
『二世部隊物語』
http://hawkeye.m78.com/442nd.htm
柏木 史楼『米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団—日系二世米兵の第二次世界大戦 The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦』
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/
『コロニア ニッケイ社会 ニュース』
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html
『第442連隊戦闘団 – Wikipedia』
なおレポートはもともと他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれません。ご容赦ください。