442連隊に関するレポート。こんかいで最終回となる。
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- 掲載にいたる経緯
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- ジェロームUSO
- WRAの職員
- Concentration Camps(強制収容所)とRelocation Centers(転住センター)
- 忠誠登録Application for Leave Clearance
- 他の国では
- 強制収用に対する批判
- 強制収容所の閉鎖
- 日本人の差別
- レポート作成当時の感想
- 参考資料
掲載にいたる経緯
映画化したかった脚本がある。
第2次世界大戦で活躍した日系アメリカ人部隊の物語だ。
アメリカ人であるというアイデンティティをもちながら敵国人の息子として疎外された彼らと
アメリカに戻りたいのに事情があって許されない自分の人生が重なった。
脚本と参考資料は某脚本家の手に渡ったのち、まわりまわってあるプロデューサーまで行ったことまでは知っている。
たしか2010年代のことだったと思う。
しかしその先のことはわからない。
なにかあったとしてもこちらに声がかかることはなかった。
残念だがあきらめるしかない。
脚本を書くにあたり前段階として資料を読み漁ってレポートにまとめていた。
この資料作成作業は一時期筆者のライフワークとなっていた。
レポートによると最終編集が2009年4月22日になっている。
せっかくなのでこのページでそれを公表しようと思う。
少々重く硬いテーマでサイトのコンセプトと異なるが他に発表する場もないのでここに記していく。
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442連隊に関するレポート その20 その他の日系人部隊
442連隊に関するレポート その21 強制収容所 – 1
ジェロームUSO
第100大隊、第442連隊が訓練をしていたシェラビー基地の近くに人口40,000ほどのハッティズバーグ市あり、兵隊相手の酒場や遊び場が軒を並べていた。当時のアメリカでは慰問の為、各地でUSO(軍慰問協会)が組織され、休暇日ごとに兵士たちをダンスパーティーに招待していた。ハッティズバーグのUSOでも表向き日系人の出入が許されていたが、ダンスの相手をする白人女性は少なかった。それを知ったシェラビーに最も近いジェローム収容所では、日系女性からなるジェロームUSOが組織された。
その後、2世兵たちはジェロームやローアーに足繁く通うようになる。
WRAの職員
『442』に元WRAの職員が登場する。貴重な資料なのでここに載せる。なお職員たちの日本人にたいする感情は当然ながら千差万別なので、あくまでも一資料であると付け加えておく。
クリフ スネルスンはポストン強制収容所で食料衣服衛生の責任者として務めていた。もちろん本人は強制収容所とは呼ばず、リロケーションセンターと呼ぶが。妻のジェニイもそこで社会科と歴史の教師をしていた。彼らは日本人にたいして好意的だった。スネルスンは戦後、収容所にいた日系人全員から感謝状と金時計を贈呈されている。ただし、収容所にいた日系人の給料が最高で月19ドルなのにたいし、彼の年収は3,600ドルから3,800ドルだったという現実も無視できない。
スネルスンの提供した記録の1つを引用する。1944年2月3日の食材である。
朝食(100人分) | 昼食(100人分) | 夕食(100人分) | |||
アプリコット 缶詰#10 | 3缶 | レタスサラダ | 25ポンド | 輪切りトマト | 20ポンド |
卵オムレツ | 10ダース | 蒸し牛肉 | 35ポンド | Nikuyasai牛肉 | 15ポンド |
粉ミルク | 2ポンド | 野菜 | 25ポンド | ミックス野菜 | 35ポンド |
ミルクEVAP14 1/2 | 6缶 | トマト#2 | 5缶 | 米飯 | 25ポンド |
フライドポテト | 20ポンド | 煮じゃがいも | 25ポンド | ほうれん草胡麻あえ | 30ポンド |
トースト | 12ポンド | ホットティー | 1/2ポンド | 漬物 | 8ポンド |
マーガリン | 2ポンド | 漬物 | 5ポンド | ホットティー | 1/2ポンド |
コーヒー | 3ポンド | りんご | 100個 | ||
ココア(子供) |
Concentration Camps(強制収容所)とRelocation Centers(転住センター)
アメリカ政府は、強制収容所を転住センターと表現し、印象を和らげようとした。しかし、アメリカ最高裁判事オーエンJ ロバートは、1944年12月18日に「転住センターとは強制収容所の言い換えにすぎない」と、その歪曲的表現を批判した。
実際、真珠湾攻撃から8日後の1941年12月15日には、ジョン ランキン下院議員が「アメリカ、アラスカ、ハワイに居るすべての日本人を捕まえて、強制収容所に入れてしまえ」と発言している。
ちなみに、どの資料を見てもアラスカについての記事が少ないが、アラスカには強制収容所も排日土地法もなかったためだと思われる。
忠誠登録Application for Leave Clearance
1943年2月10日、アメリカ政府は収容所のすべての17歳以上の日系人および日本人に忠誠登録をおこなった。
忠誠登録は資料により最も解釈にばらつきのある史実である。それというのも後述する2つの質問が移民1世とその子供たちである日系人にとって屈辱的なものと捉えられるからである。このため各資料にバイアスがかかっていると考えられる。2つの質問とは次のようなものである。
問27 あなたは命令があれば、どこであろうと合衆国軍隊の一員として喜んで任務につきますか。
問28 あなたは合衆国に無条件の忠誠を誓い、外国の軍隊や国内勢力によるいかなる攻撃からも合衆国を守り、日本の天皇あるいはその他の外国政府や勢力、組織に対していかなる忠誠も服従もしないと誓いますか。
27. Are you willing to serve in the Armed Forces of the United States on combat duty, wherever ordered?
28. Will you swear unqualified allegiance to the United States of America and faithfully defend the United States from any or all attack by foreign or domestic forces, and forswear any form of allegiance or obedience to the Japanese emperor, or any foreign government, power, or organization?
そこで、それぞれの立場にたって一つひとつ解釈していきたい。
■強制収容所内の親米派日系2世
1942年11月24日、マイク マサオカらを中心とする2世グループJACLがソルトレイクシティーにて大会を開いた。彼らは、自分たちがアメリカ人であることを示そうとした。そのため、志願兵を募り、日系2世部隊をつくろうという決議を出し、陸軍省に建白書を提出した。
1943年1月28日、陸軍省はJACLの2回目の進言を受け入れ、日系アメリカ人だけの部隊をつくることを発表した。そして2世兵の志願を募るため忠誠登録が配られる。JACL幹部たちは当初から、日系人がその活躍を際立たせるには、日系2世がばらばらに戦うのではなく1つの部隊で戦うことが重要だと考えていた。実はこの考えが442連隊編成につながっている。
■強制収容所内の日系2世、アメリカに不満をもっていた者たち
正当な市民権をもっているにもかかわらず、差別され、自由を奪われ、収容所に入れられている2世にとって、これらの質問自体が侮辱であった。問27は一度入隊を拒否された者にとっては「今更なにを……」の質問であった。問28は市民権をもっている2世にとって侮辱であった。
また、アメリカの仕打ちに怒りを感じ、親日派に傾いた者も多くいた。彼らと親米派との間には確執ができた。
■移民1世
問27は、すべての財産を奪い、自由を奪ったうえに息子まで奪われるのかと1世に憤りを感じさせた。
問27が主として日系2世に向けられた質問ならば、問28は1世に向けた質問であった。帰化したくとも市民権を拒否されている1世にとって、この質問にYESと答えることは自分が祖国を持たない民になることを意味していた。ほとんどの1世がこの質問に混乱した。
なお、収容者たちがその非合理性を訴えて激しく抗議したため、アメリカ政府は問28を修正した。「あなたはアメリカの法律を遵守し、この国が戦争を遂 行するにあたってなす物事を、どんな形であれ妨害しないことを誓いますか?」残念ながらこの修正が間に合わなかった収容所もあった。
■アメリカ政府
アメリカ政府の思惑は次の3つである。まず、不足しがちな兵士を補充するため積極的に志願を募りたい。そのために2世たちの忠誠心を確かめておきたかった。これは第100大隊の活躍が大きく影響している。2つ目に不平分子の割り出しである。そして3つ目に経費削減が関係している。強制収容所の運営は経費の面で政府の大きな負担となっていた。ある年には政府はアメリカ中の米を購入しなければいけなかった。政府の本音は「収容人数を少しでも減らしたい」であった。さいわいシカゴ、ミネアポリスなどの軍需工場で勤勉な日系人を受け入れたい旨の申し出もきていた。そのため外に出しても安全な日系人を選び出さなければいけなかった。
なお、Application for Leave Clearanceは直訳すると出所許可願であり、名目上強制ではなかった。
忠誠登録は日系人の間で賛否両論を巻き起こし、死者を出す騒動にまで発展した。また血の繋がった親子、兄弟との葛藤を生じさせた。各収容所の反応は係官の態度によって差があり、偏見や権力をふるう係官の多かったツールレイクでは戦車が出動する事態に陥った。
約78,000名のうち、この2つの質問に両方ともYESと答えたのは約65,000名といわれている。
忠誠登録にNO、NOと答え、不忠誠とみなされた約3,000名がツールレイク収容所に再隔離された。アメリカに忠誠を誓った者は仮出所した。彼らは中部や東部で就職したり、学業を再開したり、のちに陸軍に志願したりした。家族内で意見が別れた場合、出所許可が下りても家族とともに収容所に残ることが許された。
日本への帰還を希望した者はこの質問状に答えなくてよいとされた。このため、届けを出してテキサス州クリスタルシティ(Crystal City、1942年11月開設、司法省管轄の拘置所)の収容所に移り、日本への帰還船を待つ者もいた。
ちなみに忠誠登録のチェックをしていたのはMIS語学兵である。
他の国では
中南米13カ国では、アメリカ合衆国大使館が日本人、日系人を強制的にアメリカに連行した。彼らはアメリカ政府に連れられて来たにも拘らず、不法入国の罪で逮捕され、ほとんどがクリスタルシティの移民労働者用キャンプに強制収容された。
アメリカの強制収容所に連行された2,264名のうち1,771名(80%)が日本人ペルー移民と日系ペルー人だった。彼らは戦争終結後、アメリカから強制退去させられたが、ペルー政府の入国拒否により900名が日本に送還させられた。その中には日本を知らない日系2世、3世ペルー人も含まれている。残る300名はアメリカ国内で仮釈放され、その後アメリカ市民権を得た。
1999年、アメリカのビル クリントン大統領は、正式に日系ペルー人に謝罪し、原告1人当たり5,000ドルの賠償金と謝罪の手紙を出した。
その他、ブラジル、メキシコ、カナダ、オーストラリアでも日本人、日系人の強制収容が行われた。
強制収用に対する批判
前出のフランシス ビドル司法長官は1943年12月30日に「善良なアメリカ市民を、人種を理由に、必要以上に強制収容所に抑留している現在の処置は、危険であり、政府の基本方針と矛盾している」と発言した。
強制収容所の閉鎖
1945年、全ての強制収容所は10月~11月に閉鎖された。しかし仕事や家、財産を放棄し、長年に渡って強制収容された日本人移民、日系アメリカ人が社会復帰することは容易ではなかった。
強制収容に伴って剥奪された日系アメリカ人の市民権は1952年6月マッカラン ウォルター移民帰化法が施行されるまで回復されなかった。
1968年、2度と強制収容措置がとられないよう緊急拘禁法撤廃法案がダニエル イノウエによって提出される。
1982年、アメリカ議会に任命された調査委員会は、日系アメリカ人の強制収容は人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失政であった、と結論を下す。
1988年8月10日、ロナルド レーガン大統領は、市民の自由法Civil Liberties Act(日系アメリカ人補償法)に署名し「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対し、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容された日系アメリカ人に謝罪し、現存者に限って1人当たり20,000ドルの損害賠償を行った。
2006年、アメリカ上下両院は各強制収容所を国立公園局の管理のもと「アメリカ史にとって重要な史跡」として保存する法案を可決。
日本人の差別
日系人はこうして白人から差別を受けたが、日本の国ではどうだったのだろうか。ルディ トキワは鹿児島の高等小学校に留学した、いわゆる帰米である。アメリカで人種差別の厳しい場所に住んでいた彼は、留学の際、同じ肌の人種ばかりの日本に期待を膨らませた。しかし、いざ日本に住むとジャップと呼ばれるかわりにアメリカ人と呼ばれて差別される。トキワは、いくら差別をうけてもかばってくれる心の広い白人もいたことを思い出し、アメリカに帰った。
アメリカは人種差別が激しいために、差別意識の強い国と思われがちだが、実際には年齢、先輩後輩、学歴、職歴、住む場所、性別、家柄、職種、その他細かく差別している日本のほうが差別意識は強く、トキワの感情は決してユニークなものではない。アメリカでも差別は多いが、いみじくもトキワが思い出したように、すべての人が一律な反応をしない分、逃げ場があるのだ。
こうして日系人たちはもれなくアメリカ人と日本人のアイデンティティの間で葛藤をおこした。
レポート作成当時の感想
レポートには最後に筆者の感想が書かれていた。
大切にしたい文章なのでここに残しておく。
レポート作成にあたり、途中で自分の癖に気づいてしまった。悲惨な状況やグロテスクな描写は無意識のうちに外していた。戦争は戦争である。読み進めるのが嫌になる描写も出てきた。自分の癖に気づいたあとも、心でこれは戦争なんだと意識しながら、レポートにはそういった描写を極力入れなかった。
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)に強く共感する文章があったのでここに引用する。
だれにも迷惑をかけず、静かに暮らしていこうとしていた。つまり、日本では暮らせなかったから移民してきたのであり、アメリカだけが生きていけるところだったのだ。かれらはアメリカに留まっていようとした。
参考資料
書籍
荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』1995平凡社
矢野徹『442連隊戦闘軍団:進め!日系二世部隊』1979角川書店(『442』2005柏艪舎 再版)
ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』1983文藝春秋
渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』2003光人社
ジョーゼフD ハリントン 妹尾作太男訳『ヤンキー・サムライ』1981早川書房
山田太一『あめりか物語』1979日本放送出版協会
James B.Harris『ぼくは日本兵だった』1986旺文社
望月三起也『二世部隊物語1~7』2001集英社
ウェブ
『全米日系人博物館 ヒラサキ ナショナル リソースセンター』
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/nrc_jp.html
『Go For Broke National Education Center.』
http://www.goforbroke.org/default.asp
『The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史』
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
『二世部隊物語』
http://hawkeye.m78.com/442nd.htm
柏木 史楼『米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団—日系二世米兵の第二次世界大戦 The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦』
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/
『コロニア ニッケイ社会 ニュース』
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html
『第442連隊戦闘団 – Wikipedia』
なおレポートはもともと他人に見せる予定がなかったので参考資料表記に漏れがあるかもしれません。ご容赦ください。