『1984年』
原題Nineteen Eighty-Four
ジョージ・オーウェルの古典SF。
SFとはいえ大人の自覚がある人は必ず読まなければいけない一冊。
最初に出版されたのは1949年。
1949年出版なので近未来を描いた小説ということになる。
西暦2000年を超えた現代ではこの手の「過去となってしまった近未来を描いた作品」が増えてしまった。
アニメではない原作コミックでのドラえもんはもうネズミに耳をかじられて青くなっていなければいけないし、核戦争後の世界でケンシロウが北斗百裂拳を唸らせていなければいけない。こうした過去になってしまった近未来ものにたいして私たちはパラレルワールドとして受け入れる作業を必要とする。二重思考だ。脱線するがそういった意味で機動戦士ガンダムの宇宙世紀という発明は偉大だ。いくらでも近未来を先延ばしできるから。
話を戻そう。
『1984年』の世界では地上は3つの大国にまとめられている。
この3つの大国は権力の維持のために終わらない戦争を続けていた。戦争に勝利することが目的なのではなく、戦争を続けることで自国の国民をコントロールすることが目的なのだ。舞台はヨーロッパにおいて唯一オセアニアの領土となっているイギリス。ちなみにオセアニア国の中心はアメリカ大陸である。主人公のウィンストン・スミスは全体主義支配下で党の公務に従事していた。党員といってもスミスの生活は厳しい。戦争を口実にして物資の供給は常に少なめにコントロールされているせいだ。いくら党に属しているといっても主人公の序列では豊かにならない。富と権力はさらに上の階層である党中枢が独占していた。こうした世界観で主人公は密かな抵抗を始める。
作者のジョージ・オーウェルはイギリス領モルディブで産まれた。
父はアヘン農場の品質管理を担当する役人だった。
ジョージ自身は幼いうちに母に連れられてイギリス本土に戻っており生活はイギリス中心だったようである。
成人すると彼はモルディブで父と同じ役人の仕事を得るがすぐに退職して作家の道に入った。
以降彼は積極的に政治についても言及したが、どの政治グループであっても度を超すと間違った方向に突き進むことに気付き、たとえ同じ思想を持つ党であっても一定の距離を保つようにしていた。らしい。
どことなく主人公のウィンストン・スミスを思わせる経歴である。
ここからはネタバレとなるので読後に読んでいただきたい。いやその前に……
もしかすると「途中まで読んだけれど挫折した」とか「買ってはいるのだけれど」という読者がこのページを見てくださっているかもしれない。もし貴方がそうならば決して恥ずべきではないことを保証します。
実は『1984年』は読んだふりランキングで1位を獲得したことがあるらしい。
それではいこう。
『1984年』は典型的なディストピア作品である。したがって全体を通して重苦しい空気が漂っている。
そして本作品では終盤に向かうにつれてより一層絶望的な重さとなっていく。読後感ははっきり言って悪い。
あえてバッドエンドにすることでカタルシスはリアルな世界にゆだねるという技法も当然あるだろう。しかしそれにしても本作はあまりにすくいようのない絶望に満ちている。オーウェルは作品中で容赦なく主人公を傷付け遂に精神までをも破壊する。同時に読者の心も容赦なくえぐる。
そこでここではあえて読後感を少しでも和らげるための試みをしてみたい。
ポイントは3つ。
1.主人公は実はマジョリティではない
2.ヒロインの変化
3.付録は必ず読むべし
1.主人公は実はマジョリティではない
『1984年』は一貫して主人公の視点で描かれている。したがって読者は当初彼の見ている世界がこの作品での普通の生活と誤解する。しかし読み進むにつれ、彼は人口の2割に満たない党員という集団に在籍していることがわかる。残り8割の者がプロールと呼ばれる下層階級。ではそのプロールというのはどういった生活をしているのか。彼らは物資の供給をコントロールされているので貧しく、情報も統制されているので真実を知ることもなく、おそらく教育もまともにされていない。(それどころか党は科学や思考することを根絶させようとしている)にもかかわらず閉塞的な党員の生活にくらべてプロールの生活は実に活き活きとしており多くの読者がプロールこそが自分に一番近い存在と感じられるだろう。つまり読者はある段階から主人公と距離をおいて傍観することができるようになる。物語で起こっていることはあくまで特殊な階層に生きる人物の特殊な出来事なのだ。我々読者もぜひここは作品で語られる二重思考を利用したい。
2.ヒロインの変化
作品では女性の腰回りについての表現が繰り返し記述されている。
巧みな文章構成のオーウェルのことだから偶然そうなったわけではないのは明白である。
夫人との別居の理由も含めてその伏線すべてがヒロインとの再開シーンへと繋がっている。
おそらく最後のシーンまでにジュリアは妊娠出産している。その子が生きているか死亡しているのかはわからない。生きているとして彼女がその子を育てているのか誰かに預けたかもわかならない。ましてそれが主人公の子供とは限らない。真逆の解釈もできる。彼女は洗脳されたのちあらためて夫をあてがわれ党外郭の一員として慎ましく家族と暮らしている。そんな解釈だってできるのだ。しかしもし、もしも彼女がウィンストンの子を出産していたとしたらそれは紛れもなく闇に光る希望となる。
そして仮にこの解釈が正しいとするならば物語の空気感を180度回転させることができる。それについては3のあとに示したい。
3.付録は必ず読むべし
小説の巻末には付録がついている。作者オーウェルはここで物語に登場する架空の言語ニュースピークについて学術的な説明をしている。ハヤカワ文庫ではわざわざ右開き横書きを採用しておりどちらかというと科学系読み物の脚注に近い印象をもつ。ところがこの付録は脚注というよりもエピローグとしての意味あいが強く小説本文として読むべき文章なのである。オーウェルはこの付録以外にも日記や政治思想に関する書籍など本文中に文体の異なる文章を盛り込んで読者の忍耐力を試している。つまり付録も本文なのだ。解説によると原文ではこの付録は一貫して過去形で記述されているという。つまり1984年以降に架空の人物がニュースピークについてまとめた論文だと受け取れる。付録のなかで一度だけ主人公の名前も言及されているのでひょっとすると物語自体が1984年以降にこの人物により執筆されたという読み方もできる。
そして大事なのはこの架空の筆者の価値観は明らかに小説中の党の価値観とは違うものだということだ。彼もしくは彼女は我々読者とよく似た価値観を有している。言葉自体もこの時代にはニュースピークからオールドスピーク、つまりもとの英語に戻されておりここから1984年以降に党が押し付けていた価値観が崩壊していることがうかがえる。おそらく党も、もしかしたら国そのものも崩壊してもとの民主主義の世界に戻されている可能性が高い。
つまり付録を読めば明るい未来が読み取れるようになっている。
2‐2 もし彼女が本当に妊娠していたとしたら
上述のようにもし彼女が妊娠していたとしたら、そこから展開してさらに物語の印象を真逆に変えることもできる。
二転三転したのちオブライエンはやっぱりブラザー同盟の一員だったという可能性だ。
この先はあまりに逸脱しているので二次創作だと思って読んでもらいたい。
オブライアンはやはりブラザー同盟だった。だからこそ彼は7年ものあいだスミスを監視していたにも関わらず逮捕を避けてきた。いくらでも逮捕するチャンスがあったにもかかわらず。もちろん彼お得意の二重思考により7年という発言も虚偽という可能性もぬぐい切れない。いずれにせよ彼は長きにわたり主人公を泳がせていたことになる。
彼らが逮捕されたのは結局寝過ごしたのが原因である。無断で仕事を休んだことになる。これはさすがに言い逃れできない。ここがポイントだ。
逆に言えばうまく表面を繕ってさえおけば党自体が細かい事には目を瞑る体制だったのかもしれない。
これもまた二重思考。
仮に2人が寝過ごすことさえなければまだまだ二人のささやかな反抗は続いていたかもしれない。
しかしスミスはしくじった。はっきりと誰にでもわかるミスを犯した。
ブラザー同盟の一員であるオブライエンは自分のなすべきことをすぐに考え行動に移したに違いない。彼のすべきことは連鎖的に自分を含めたメンバーの逮捕が起きないようにすること。そしてどこかのタイミングでジュリアの妊娠を知った彼は優先順位の二番目に子供を守ることを選んだ。そこで彼が選んだ方法がスミスをスケープゴートにすることだった。
彼は自らの手でスミスを虐待することにより自分の疑惑を晴らそうとする。目的を成就させるために彼はスミスを魂の領域まで徹底的に破壊した。その一方で彼女自身が言っているように表向き党に従ってみせることに長けていたジュリアはオブライエンと一芝居うってすぐに釈放された。これにより2人はお腹の子供を守ることに成功する。お腹の子供はその後メンバーにとっての希望の光になるかもしれない。きっとジュリアはどういう形であれ残りの一生を子供の安全のために捧げるだろう。いかなる犠牲をはらったとしてもだ。そうだとするとスミスとの再開での彼女の言動はまったく違った意味を持つ。
そしてラストの意味ももしかするとまったく違った意味を持つかもしれない。
未見ではあるがこの作品は映画になっている。
また同じく未来世紀ブラジルはこの作品からヒントを得ている。